「石たち」「椅子たち」──日本語の複数形は増えている
ものを総体として眺める日本語とは違い、英語のように単数と複数を区別するということは「個別化」を意味する。「たち」という複数形が使われるようになったのは、それまで総体としていたものを、英語の学習を通じて「個別化」して眺めるようになったからではないだろうか。
とはいえ、現代の日本語に急増している「たち」は、決して英語のような意味での複数形ではない。そこで、次の文を読んでいただきたい。
「山で石を拾ってきた。机の上に置かれた石たちは、夕日を浴びて光っている」
いかがだろうか。「石」よりも「石たち」に心理的な距離の近さを感じないだろうか。このように、「たち」は「擬人化」や「親しみ」の表現として機能しているのだ。
......そんなことを考えていた時、わたしの目はある記事に釘づけになった。アメリカ生まれの作家リービ英雄のインタビューである。名詞の単数複数に関する日本人の感覚をこれほど鮮やかに表現した例をわたしは他に知らない。
リービは安部公房の芝居を英訳したことがある。戯曲に出てくる象が1頭なのか群れなのか、どうしても分からなかった。(......)直接、安部に聞いた。作家は「われわれ日本人には分からない。リービ君が決めなさい」と答えた。(2019年6月7日朝日新聞夕刊)
その数十年後。リービのデビュー作『星条旗の聞こえない部屋』が英訳されることになった。
「翻訳者のアメリカ青年が『領事館のこの警備員は、単数ですか複数ですか』と問うた。ところが、わたしには分からなかったのです。(......)このとき、安部さんが言った『われわれ日本人』の、われわれの中に入れた気がした」(同上)
[筆者]
平野卿子
翻訳家。お茶の水女子大学卒業後、ドイツ・テュービンゲン大学留学。訳書に『敏感すぎるあなたへ――緊張、不安、パニックは自分で断ち切れる』、『落ち込みやすいあなたへ――「うつ」も「燃え尽き症候群」も自分で断ち切れる』(ともにCCCメディアハウス)、『ネオナチの少女』(筑摩書房)、『キャプテン・ブルーベアの13と1/2の人生』(河出書房新社、2006年レッシング・ドイツ連邦共和国翻訳賞受賞)など多数。著書に『肌断食――スキンケア、やめました』(河出書房新社)がある。