最新記事

言語学

「石たち」「椅子たち」──日本語の複数形は増えている

2021年7月27日(火)16時00分
平野卿子(ドイツ語翻訳家)
椅子

Photoillustration; jacktheflipper-iStock.

<かつて無生物につけることのなかった「たち」が多用されるようになった。とはいえ、英語のような意味での複数形ではない>

次の俳句は松尾芭蕉の作品の中でもよく知られているが、この蛙(かわず/カエル)は、単数だろうか? それとも複数だろうか?


古池や蛙飛び込む水の音

ほとんどの人は単数だと答えるのではないだろうか。この句にはおびただしい数の翻訳があるが、ドイツ語訳を含め、ほとんどがカエルを単数にしている。たとえば、ドナルド・キーンは次のように訳している。


The ancient pond / A frog leaps in / The sound of the water.

だが、次に挙げるアメリカの詩人シッド・コーマンのように、冠詞のない「裸」の名詞で訳されているものもいくつかある。


old pond / frog leaping / splash.

わたしもかつては蛙を単数だと思っていたが、今ではいささか感想が異なる。蛙が飛び込み、それが1匹なのか2匹なのか3匹なのかはどうでもいい、そんな気がするのだ。実際、ほとんどの日本語話者は、それほど数にはこだわっていないのではないだろうか。

そう考えると、キーン訳が単数(a frog)とし、複数ではないとはっきり意識しているに対して、コーマン訳は個体としてよりも総体として蛙を思い浮かべている点では、私たち日本語話者の感覚に近い。

日本人も単数形と複数形を区別するようになった?

近年、目に見えてよく使われるようになった日本語は「たち」だ。確か雑誌「クロワッサン」の記事だと記憶しているが、「わたしの愛する椅子たち」という見出しを見て、目が点になった。もう30年近くも前のことだが、当時は衝撃的だった。

「たち」は、「人たち」「学生たち」のように人間や一部の動物に使われてはいたが、かつては無生物につけることはなかった。だが、現在では無生物に「たち」がついた表現を非常によく見かける。

たとえば、村上春樹の最新刊のタイトルは『古くて素敵なクラシック・レコードたち』(文藝春秋)であるし、数年前に東京・渋谷で行われた展覧会は「世にも奇妙な絵画たち」であったなど、枚挙にいとまがない。

「たち」が多用されるようになったのは、英語の影響だということは容易に想像がつく。しかし、わたしたちが英語のように単数か複数かを区別するようになったかと言えば、そうではないだろう。

例えば、息子から「今日は後輩と飲んでくる」と言われた母は、後輩の数を尋ねないだろう。だが、食事に呼びたいと言われれば、人数を尋ねるだろう。つまり、単数か複数かは必要があるときにはじめて意識に上るのだ。

今、あなたにオススメ

関連ワード

ニュース速報

ワールド

英利下げ支持には雇用と消費の軟化必要=グリーン中銀

ワールド

「麻薬運搬船」への複数回攻撃はヘグセス長官が承認=

ワールド

トランプ氏のMRI検査は「予防的」、心血管系良好=

ビジネス

再送-インタビュー:USスチール、28年実力利益2
今、あなたにオススメ
MAGAZINE
特集:日本時代劇の挑戦
特集:日本時代劇の挑戦
2025年12月 9日号(12/ 2発売)

『七人の侍』『座頭市』『SHOGUN』......世界が愛した名作とメイド・イン・ジャパンの新時代劇『イクサガミ』の大志

メールマガジンのご登録はこちらから。
人気ランキング
  • 1
    「世界一幸せな国」フィンランドの今...ノキアの携帯終了、戦争で観光業打撃、福祉費用が削減へ
  • 2
    【クイズ】1位は北海道で圧倒的...日本で2番目に「カニの漁獲量」が多い県は?
  • 3
    【クイズ】次のうち、マウスウォッシュと同じ効果のある「食べ物」はどれ?
  • 4
    【銘柄】関電工、きんでんが上昇トレンド一直線...業…
  • 5
    7歳の息子に何が? 学校で描いた「自画像」が奇妙す…
  • 6
    中国の「かんしゃく外交」に日本は屈するな──冷静に…
  • 7
    【最先端戦闘機】ミラージュ、F16、グリペン、ラファ…
  • 8
    600人超死亡、400万人超が被災...東南アジアの豪雨の…
  • 9
    メーガン妃の写真が「ダイアナ妃のコスプレ」だと批…
  • 10
    コンセントが足りない!...パナソニックが「四隅配置…
  • 1
    インド国産戦闘機に一体何が? ドバイ航空ショーで墜落事故、浮き彫りになるインド空軍の課題
  • 2
    【最先端戦闘機】ミラージュ、F16、グリペン、ラファール勢ぞろい ウクライナ空軍は戦闘機の「見本市」状態
  • 3
    7歳の息子に何が? 学校で描いた「自画像」が奇妙すぎた...「心配すべき?」と母親がネットで相談
  • 4
    100年以上宇宙最大の謎だった「ダークマター」の正体…
  • 5
    膝が痛くても足腰が弱くても、一生ぐんぐん歩けるよ…
  • 6
    【クイズ】次のうち、マウスウォッシュと同じ効果の…
  • 7
    128人死亡、200人以上行方不明...香港最悪の火災現場…
  • 8
    【寝耳に水】ヘンリー王子&メーガン妃が「大焦り」…
  • 9
    【銘柄】関電工、きんでんが上昇トレンド一直線...業…
  • 10
    子どもより高齢者を優遇する政府...世代間格差は5倍…
  • 1
    東京がニューヨークを上回り「世界最大の経済都市」に...日本からは、もう1都市圏がトップ10入り
  • 2
    【クイズ】本州で唯一「クマが生息していない県」はどこ?
  • 3
    一瞬にして「巨大な橋が消えた」...中国・「完成直後」の橋が崩落する瞬間を捉えた「衝撃映像」に広がる疑念
  • 4
    「不気味すぎる...」カップルの写真に映り込んだ「謎…
  • 5
    【写真・動画】世界最大のクモの巣
  • 6
    高速で回転しながら「地上に落下」...トルコの軍用輸…
  • 7
    「999段の階段」を落下...中国・自動車メーカーがPR…
  • 8
    まるで老人...ロシア初の「AIヒト型ロボット」がお披…
  • 9
    「髪形がおかしい...」実写版『モアナ』予告編に批判…
  • 10
    膝が痛くても足腰が弱くても、一生ぐんぐん歩けるよ…
トランプ2.0記事まとめ
日本再発見 シーズン2
CHALLENGING INNOVATOR
Wonderful Story
MOOK
ニューズウィーク日本版別冊
ニューズウィーク日本版別冊

好評発売中