知らない女が毎日家にやってくる──「介護される側」の視点で認知症を描いたら
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<今や、65歳以上の6人に1人が認知症だ。しかし、自分が認知症患者になることを想像するのは難しい。エッセイストの村井理子氏が当事者の不安や苦しみを筆に乗せた家族のドラマ、『全員悪人』を一部抜粋する(前編)>
父や母、義父、義母、あるいは祖父母......。身内の誰かが認知症になる。考えられなかったような行動が増え、ときに理不尽に感情をぶつけられもする。
全ては病気ゆえのこと。頭では分かっていても、ついいら立ち、悲しくもなり、自己嫌悪に陥ってしまう。認知症患者を抱える多くの家族にとって、やるせなさはつきものだ。
一方、自分自身も家族も健康な場合、認知症はどこか遠い病気である。
なんだか大変そう、というイメージはある。少し具体的に、自分が介護者となる想像をすることはせめてできるかもしれない。
しかし、自分が被介護者となる、すなわち患者となる想像をリアルにすることは少ないのではないか。現在、65歳以上の高齢者の約6人に1人が認知症患者であると言われているにもかかわらずだ(内閣府「平成29年度版高齢社会白書」)。
翻訳家でエッセイストの村井理子氏は、新刊『全員悪人』(CCCメディアハウス)で、介護される者の目を通して、認知症患者の日々を書いた。
幼い息子を遺し、突然死したシングルファーザーのちょっと困った兄を書いたエッセイ『兄の終い』(CCCメディアハウス)に次ぐ、家族のドラマである。
「家族の認知症」を書いた作品は数多い。しかし、患者本人が記録を残しづらい認知症という病気にあって、当事者の不安や苦しみを真摯にあぶり出そうとしたところに、村井氏の家族に対する思いがある。
決して、リアリティのないきれいごとにはしない。ただ、認知症になった家族のいら立ちを理解しようとし、ともに長い時間を過ごし、見つめ、筆に乗せた。
『全員悪人』の冒頭を2回に分けて抜粋紹介する。
プロローグ――陽春
寝室の窓から柔らかな光が差し込んでいる。可愛らしい小鳥のさえずりが聞こえてくる。天井の模様も、ベッド横の棚も、すべて見慣れたもののはずなのに、自分がどこにいるのかわからない。
私はいつ寝たのだろう?
今日は何曜日?
ここは誰の部屋?
布団からそっと右手を出して、枕元に置いてあった眼鏡をかけた。
左を見ると、見知らぬ老人がいびきをかいて寝ている。
誰、この人。見覚えがない。こんな皺だらけのお爺さんなんて知りません。どちらさま? 誰かに似ているようですけれど。どこかでお会いしたことがあるかもしれないですね。ねえ、私が知っている誰かさん。ちょっと起きてくださいな。お顔をしっかり見せてください。
もしかしたら......お父さん?
この横顔はお父さんかもしれない。ああ、お父さんじゃないの。ほらほら、ちゃんと布団をかけなくちゃ。少し肌寒い朝なのだから、風邪を引いてしまうじゃないですか。それでなくても、去年のとても暑い日に脳梗塞で倒れて、三ヶ月も入院していたでしょう? え、三ヶ月も入院? どこの病院で?
あれは確か......。