カタカナ語を使いたがる「よそが気になる」日本人(とドイツ人)
「啓蒙専制君主」で知られるプロイセンのフリードリヒ大王(フリードリヒ2世)がフランス文化を愛し、ドイツ語を「馬丁の言葉」といって蔑み、フランス語を話していたのは有名な話だ。
晩年には、小論「ドイツ文学について」をフランス語で書き、その中でドイツ語の響きを少しでも柔らかくしようと、それぞれの動詞に母音を加えることまで提案したという。
フランスに対する思慕はその後も脈々とドイツ人に受け継がれているのではないかと思ったことがある。
ドイツ留学時代、学生寮で一緒だった、フランスと国境を接するバーデン=ヴュルテンベルク州出身の女子学生が、地元では「ダンケシェーン(ドイツ語の「ありがとう」)」とは言わず、「メルシィ(フランス語の「ありがとう」)」と言うのだと自慢げに言っていたのだ。
ドイツ人の「ドイツ語コンプレックス」
しかし、これがドイツ人のフランスへの憧れだけではなく、母語に対するコンプレックスからも来ていると気づいたのは、その後しばらく経ってからだった。「ドイツ語は発音もきれいじゃないし、単語も長くて不細工だ」と言って嘆くドイツ人に何人も出会ったのだ。
実際、ドイツ人は外国語をやたらとしゃべりたがる。国際機関で働くアメリカ人の知人も「ドイツ人しかいない場所でもドイツ人同士で英語でしゃべっている」と言って驚いていた。
確かに、こちらがドイツ語で話しかけても英語で返してくるドイツ人が多いことは前から気になっていたが、要するに英語(外国語)を話すことが好きなのだ。
「よそが気になる」ことにはメリットもある
1998年にJリーグからペルージャに移籍したときの中田英寿選手のイタリアでの記者会見は忘れられない。大勢のマスコミが押しかけて、いきなりイタリア語で質問を浴びせかけていた。
「おれ、わかんないよ、イタリア語」と当惑する中田選手をテレビで見ながら、ドイツ人なら英語で話しかけるだろうと思った。
だが、イタリアの人たちは外国人だろうと誰だろうとまったく気にしない。イタリア語でいいじゃん、だってここ、イタリアだよ。そこには自国に対する無邪気なまでの愛着と自信が感じられた。