カタカナ語を使いたがる「よそが気になる」日本人(とドイツ人)
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<「リスペクト」「ベネフィット」「リスク」......。対訳があるにもかかわらず外来語が氾濫しているのは、何らかのコンプレックスが潜んでいるから>
明治初頭(1870年代)、日本語は貧弱で不確実だからとの理由で初代文部大臣・森有礼は「英語公用語化論」を主張した。
終戦の翌年1946年には、いっそ世界で「一番美しい言語」であるフランス語に取り替えてはどうかと、「小説の神様」こと志賀直哉が言っている(ただし、志賀自身はフランス語ができなかった)。
森や志賀の主張はともかく、日本語に外来語(カタカナ語)が非常に多いのは確かである。わたしたちは母語を外国語と取り換えることが平気どころか、好んでそうしているのだ。
たとえば、「尊重」や「尊敬」というれっきとした日本語があるにもかかわらず、「リスペクト」という言葉を最近よく目にする。また、先日薬局で渡された説明書には、「薬には効果(ベネフィット)がありますが、副作用(リスク)もあります」と書かれていた。ここまできたかと思ってしまった。
ドイツ人も英語好き、「和製英語」的な言葉もある
しかし、外国語好きなのは日本人だけではない。実はドイツ人もこの点は非常によく似ている。
ヨーロッパでドイツほど英語由来の言葉が使われている国はない。これは「デングリッシュDenglisch(Deutsch+Englishドイツ語+英語の意)」と呼ばれており、「しゃれている」とか「知的に見える」などの理由で、文法上は必ずしも正しくなくとも使用されているのは、和製英語と同じだ(ちなみにドイツでも日本と同じく「ハッピーエンド(Happy End)」が使用されている。英語ではhappy ending)。
外国語をやたらと取り入れたがる気持ちの底には、何らかのコンプレックスが潜んでいることが多い。「いいもの」や「本物」は自分のところ以外のどこか他にある――その思いがつきまとって離れない。つまり、「よそが気になる」のである。
フランス語好きだったフリードリヒ大王
思えば、わが国は朝鮮半島、中国に始まり、明治以降はヨーロッパ、そして戦後はアメリカと、外国を規範として崇めてきた。
一方、数世紀にわたって数多くの小国に分裂し、文化の中心となる首都のなかったドイツも諸外国に後れを取っているという自覚があり、文化後進国としての焦りやコンプレックスがあったことは間違いない。なかでもパリで華麗な宮廷文化が花開いたフランスに憧れる気持ちが強かった。