最新記事

医療

医学部で人生初の解剖、人体が教科書通りでないことにほっとした気持ちになった

2020年11月18日(水)21時20分
ニューズウィーク日本版ウェブ編集部

最初の緊張は割と早く解けた。そしてぼくたちは黙々と真剣に解剖に取り組んだ。解剖学が医学の基盤ということは十分に分かっていたし、何よりご遺体を前にして厳粛な気持ちが薄れることはなかった。実習は長期に及んだが、倦(う)むことなく弛(たゆ)むことなく粛々と専念した。

解剖が進むにつれて、一人の人間の肉体がどんどん細かい部分に分かれていく。すると「人間ってなんだろう」と高校生のときに考えた疑問がまた甦ってきた。人は肉体と霊の2つからできているという人がいる。でも、いま目の前にしているご遺体に霊が舞い戻ってきても、この人が生き返るとは思えない。高校の「倫理・社会」の授業で、実存主義について「実存は本質に先立つ」と習ったが、本当に人間とはまず物体として存在しているのだな......などと強く納得した。

この解剖実習の光景を一般の人は正視できないだろう。自分の体を献体に捧げた人も、当然、この実習の具体的な姿は知っていないだろう。おそらく献体をすると決めたときにその人は、「自分を捨てる」「身を捧げる」と決意して、自分の肉体を医学に奉仕させようとしたに違いない。それは、ある種の自己犠牲みたいなものだろう。あるいは仏教でいう慈悲の心に通じるようなものだろうか。

***

ぼくの真向かいに位置する女子学生は、男子学生に劣らず熱心に、そして積極的に解剖をこなしていた。大きめの眼鏡が愛らしい、少し華奢な女子学生だった。ぼくは解剖に熱中すると体を乗り出してしまう。彼女もそうだった。気が付くと、お互いの額がくっついていることもあった。

ぼくはこの女子学生が少し好きになってしまった。女性だからといって甘えないところが感じがよかったし、ぼくは一生懸命な人が性別を問わず好きだったのだ。でも、少し好きになっただけで、それ以上好きになることはなかった。私語を交わすこともほとんどなかった。

ぼくは自転車の前カゴに『分担 解剖学』と『解剖学の実習と要点』を乗せて、亥鼻山の坂を立ち漕ぎで駆け上がり、校舎に通った。1年近くに及んだ解剖が終わると試験が待っていた。試験官は、千葉大の先生だけでなく、他大学からも何人かの先生がやってきた。試験はかなり厳しいと聞いていたのでぼくたちはその日を緊張して待った。

試験官が訊く。

「○○神経はどれだ?」

「この神経の名前は何だ?」

ぼくはラテン語で答えた。すると教官は、

「何だ、その言い方は? どこの言葉だ?」

その試験官は英語を使う先生だった。

今、あなたにオススメ

関連ワード

ニュース速報

ワールド

豪小売売上高、5月は前月比0.2%増と低調 追加利

ビジネス

午前の日経平均は続落、トランプ関税警戒で大型株に売

ワールド

ドバイ、渋滞解消に「空飛ぶタクシー」 米ジョビーが

ワールド

インドネシア輸出、5月は関税期限控え急増 インフレ
今、あなたにオススメ
MAGAZINE
特集:トランプvsイラン
特集:トランプvsイラン
2025年7月 8日号(7/ 1発売)

「平和主義者」のはずの大統領がなぜ? 核施設への電撃攻撃で中東と世界はこう変わる

メールマガジンのご登録はこちらから。
人気ランキング
  • 1
    ワニに襲われた男性の「最期の姿」...捜索隊が捉えた発見の瞬間とは
  • 2
    ワニに襲われ女性が死亡...カヌー転覆後に水中へ引きずり込まれる
  • 3
    仕事ができる人の話の聞き方。3位は「メモをとる」。2位は「身を乗り出す」。では、1位は?
  • 4
    突然ワニに襲われ、水中へ...男性が突いた「ワニの急…
  • 5
    砂浜で見かけても、絶対に触らないで! 覚えておくべ…
  • 6
    世紀の派手婚も、ベゾスにとっては普通の家庭がスニ…
  • 7
    ディズニー・クルーズラインで「子供が海に転落」...…
  • 8
    燃え盛るロシアの「黒海艦隊」...ウクライナの攻撃で…
  • 9
    あり?なし? 夫の目の前で共演者と...スカーレット…
  • 10
    ワニに襲われた直後の「現場映像」に緊張走る...捜索…
  • 1
    燃え盛るロシアの「黒海艦隊」...ウクライナの攻撃で大爆発「沈みゆく姿」を捉えた映像が話題に
  • 2
    「コーヒーを吹き出すかと...」ディズニーランドの朝食が「高額すぎる」とSNSで大炎上、その「衝撃の値段」とは?
  • 3
    イランを奇襲した米B2ステルス機の謎...搭乗した専門家が語る戦略爆撃機の「内側」と「実力」
  • 4
    ワニに襲われた男性の「最期の姿」...捜索隊が捉えた…
  • 5
    定年後に「やらなくていいこと」5選──お金・人間関係…
  • 6
    突然ワニに襲われ、水中へ...男性が突いた「ワニの急…
  • 7
    夜道を「ニワトリが歩いている?」近付いて撮影して…
  • 8
    仕事ができる人の話の聞き方。3位は「メモをとる」。…
  • 9
    サブリナ・カーペンター、扇情的な衣装で「男性に奉…
  • 10
    「小麦はもう利益を生まない」アメリカで農家が次々…
  • 1
    日本の「プラごみ」で揚げる豆腐が、重大な健康被害と環境汚染を引き起こしている
  • 2
    「コーヒーを吹き出すかと...」ディズニーランドの朝食が「高額すぎる」とSNSで大炎上、その「衝撃の値段」とは?
  • 3
    「あまりに愚か...」国立公園で注意を無視して「予測不能な大型動物」に近づく幼児連れ 「ショッキング」と映像が話題に
  • 4
    一瞬にして村全体が消えた...スイスのビルヒ氷河崩壊…
  • 5
    妊娠8カ月の女性を襲ったワニ...妊婦が消えた川辺の…
  • 6
    庭にクマ出没、固唾を呑んで見守る家主、そして次の…
  • 7
    10歳少女がサメに襲われ、手をほぼ食いちぎられる事…
  • 8
    JA・卸売業者が黒幕説は「完全な誤解」...進次郎の「…
  • 9
    「ママ...!」2カ月ぶりの再会に駆け寄る13歳ラブラ…
  • 10
    気温40℃、空港の「暑さ」も原因に?...元パイロット…
トランプ2.0記事まとめ
日本再発見 シーズン2
CHALLENGING INNOVATOR
Wonderful Story
MOOK
ニューズウィーク日本版別冊
ニューズウィーク日本版別冊

好評発売中