SNSの3つの特徴は「バカの先験的条件」なのかもしれない
〈悪意の先験的条件〉は、大きく3つに分けられるそうだ。
ひとつ目は、著述家で映像作家のギー・ドゥボールが述べた〈スペクタクルの社会〉だ。ここではすべての経験が可視化される。つまり、人間の生活がスペクタクル化され、うわべだけになる。状況主義者(シチュアシオニスト)であるドゥボールは、これを次のように定義した。
「スペクタクルとは、イメージの集まりではなく、イメージによって媒介される社会的な人間関係のことである」(180ページより)
この定義は、そのままフェイスブックに転用できるという。フェイスブックでは、写真(イメージ)こそがユーザーの人格となり、それが「友だち」との関係性を築くということだ。
すなわち"フェイスブック社会"では、イメージこそがあらゆる媒介の中心にあるということであり、したがってツイッターの場合でも似たようなことが言える。
ふたつ目の特徴は、何でも手当たり次第に他人を裁こうとする傾向だ。一九八〇年、ミシェル・フーコーはこのように述べている。
「なぜ人間はこんなにも他人を裁くのが好きなのか。おそらく、人類に与えられたもっとも簡単にできることのひとつだからだろう」(181ページより)
近年は動画投稿サイトやネットコミュニティサービスが多様化したため、個人がコメントを書き込める場が増えた。しかもユーザーはハンドルネームによって身分を隠せるため、リスクを負うことなく過激な発言ができる。
その結果、「『裁き愛」にますます拍車がかかった」とジョスト氏は表現しているが、いわば「炎上」の土壌が明確に出来上がっているわけである。
性別や年齢に関係なく、我々はたいていバカだから
個人主義や自己中心主義は、決して目新しいものではない。しかし、「世界は自分中心に回っている」と思わせる(錯覚させる)効果のあるインターネットが、それをさらに肥大化させたことは否定のしようもないだろう。
例えばフェイスブックの「ライブ動画配信」は、スマートフォンで撮影した自分の周囲の世界を他の人たちに見てもらうための機能だ。早い話が誰でもニュースメディアになれるわけで、それこそが"肥大化した自己中心主義の新たな症状のひとつ"だということである。
ただし、それが開かれた機能である以上、他の人も同じことをしているということにもなる。だから各人の中には必然的に「誰よりも有名になりたい」という欲求が芽生えるのだ。すなわち、そんな「自らの存在意義のために有名になりたいという欲求」こそが、SNSの3つ目の特徴であるという。