閻連科:中国のタブーを描き続けるノーベル文学賞候補が選ぶ意外な5冊
NEWSWEEK JAPAN
<著作の多くが中国で発禁処分となっている作家、閻連科。影響を受けた本について寄稿を依頼すると、出てきたのが「鎌とニラとニラを食べた人」という言葉だった。意外な日本の小説も含む、彼の5つの足跡とは? 本誌「人生を変えた55冊」特集より>
私は生涯ずっと書籍に悩まされる人間で、なんとなく何かの本を気に入ったかと思うと、またすぐにそれをどこかへ打ち捨ててしまうということがしょっちゅうある。
手元にあって、10年、あるいは私の半生のほとんどに付き合ってくれた本もあるが、それでいてそもそもその本に全く思い入れなどないのである。狂おしいほど夢中になった神様が作家にペンを与えたもうたのだと思えるほどの本でも、その本の著者に対しては少しも興味が持てなかった。
本と一緒に語る私とは一体どんな人間なのか、自分には分からない。いわば鎌とニラが一緒に置いてあって、鎌でニラを切ったもののそのニラを使わないというようなものだ。では鎌、ニラ、ニラを食べる人、この三者のうちのどれが私なのだろう?
包み隠さずに言えば、1人の作家の全ての作品を読み切ったという経験はない。作家に対する理解が深まると、その作家の作品に対する愛が冷めてしまうからだ。ある作家の作品を気に入ったからといって、彼(彼女)の人生や伝記には、ほとんど興味を持つことはなかった。だから、私に人生と創作に影響を与えた5人の作家、5冊の本について語れというのは、長距離走を愛する人(例えば村上春樹のような)に、その果てしなく長い道のりにおいて一番大事な足跡を5つ探し出せというようなものだ。
それでも歩んできた以上、足跡は残る。それなら、数年ごと、あるいは数キロごとに、あやふやながらいくつか足跡を探してみようか。
『聖書の物語』(ゼノン・コシドフスキー、1963年、邦訳なし)――この本が私に与えた影響は宗教や神についてではない。79年、飢餓、革命および共産主義がもたらした人生における困惑の中、無神論と英雄主義に満ちた兵営の中、師団の図書館の長年ほこりに埋もれた本棚で見捨てられていたことによって生き残ったこの本に、私は出会った。
生活の中に神はいないということをこの本は私に信じさせたが、中国で盛んに唱えられている無神論もまた、まさしく神の存在を証明していた。神は永遠に物語と文学と共にある。物語と文学がなかったら、神には居場所がない。だから、のちに『聖書』を読むことができたとき、『聖書』が信者のための聖典であり、私のような無神論の中で育ったあらゆるものに疑いを抱く人間にとって何よりも偉大な文学の古典および絶対多数のヨーロッパ文学の古典、そのまた古典の源であることを、私は知ったのである。