ナスはドイツ語でもNASU? 言葉はモノに名前をつけることから生まれる
ドイツ人のおばさんはナスをドイツ語でなんというのか知らなかったため、「ナス」をドイツ語だと思ってしまったのだろう。わたしを見ると、おばさんはにこにこした。「またNASUを買いにきたのね」
もっと驚いたのは、そこへやってきたイタリア人たちが、まるで当たり前のように次々と「NASU」と言って買っていたことだ。イタリア人たちも「NASU」がドイツ語だと思い込んだにちがいない(なお、今ではナスはスーパーで手に入るが、ドイツ語でナスを意味する「オベルジーネ(Aubergine)」は、フランス由来の外来語である)。
言葉は名前をつけることから生まれ、概念に発展する
イギリスの探検家、キャプテン・クックがオーストラリアに到達したとき、見たことのない動物がいたので「あれは何か?」と聞いたところ、先住民アボリジニが現地語で「カンガルー(わかりません)」と答えたために「カンガルー」と呼ばれるようになったという有名な話があるが、これは事実ではない。
だが、この話は言葉がモノに名前をつけることから生まれたことをいまさらのように思い起こさせる。いつの時代でもわたしたちは、名がわからなければ知りたいと思い、なければ名づけようとするのだ。
「NASU」と書いた札を立てたドイツのおばさんも、それまでわからなかった野菜の名前が「わかって」、安心したにちがいない。あのときのおばさんの笑顔が何よりもそれを物語っている。
そもそも言葉というものは、目の前のモノに名前をつけることから始まり、動詞、副詞、形容詞などを経て、やがて抽象的な概念へと発展すると考えられている。
だが、日本では明治維新による急激な西欧化により、「社会」「存在」「観念」など、それまでの日本語にはなかった抽象名詞が次々と造られた。つまり、言葉の自然な発達の道筋を辿ることがなかった。
日本人が抽象的な思考を得意としないといわれる理由の一つに、このことが影響しているのではないかと考えているが、それはまた別の議論が必要であろう。
【参考記事】外国語が上手いかどうかは顔で決まる?──大坂なおみとカズオ・イシグロと早見優
【参考記事】「あなた」はもはや日本語ではない
[筆者]
平野卿子
翻訳家。お茶の水女子大学卒業後、ドイツ・テュービンゲン大学留学。訳書に『敏感すぎるあなたへ――緊張、不安、パニックは自分で断ち切れる』(CCCメディアハウス)、『ネオナチの少女』(筑摩書房)、『キャプテン・ブルーベアの13と1/2の人生』(河出書房新社、2006年レッシング・ドイツ連邦共和国翻訳賞受賞)など多数。著書に『肌断食――スキンケア、やめました』(河出書房新社)がある。
2020年6月23日号(6月16日発売)は「コロナ時代の個人情報」特集。各国で採用が進む「スマホで接触追跡・感染監視」システムの是非。第2波を防ぐため、プライバシーは諦めるべきなのか。コロナ危機はまだ終わっていない。