映画《東京オリンピック》は何を「記録」したか
この映画には、富士山をバックに聖火ランナーが走る場面、女子体操のチャスラフスカ選手のスローモーション演技が黒バックで映し出されるところなど、大会後に撮影された明白な「やらせ」場面が他にもいろいろあるが、それらもほとんど批判されていない。当時のドキュメンタリー映画には、土本典昭監督のデビュー作『ある機関助士』(一九六三)の、列車の遅れを取り戻すために奮戦するシーンが、実は撮影用の特別列車を仕立てた撮影だったとか、その手の話が山ほどあったようだ。表現すべき事柄をきちんと描くことが第一で、そのための細工ならかなりのことが許容されたのである。そう考えれば、入場行進のシーンも十分に許容範囲内だったに違いない。
こう考えてみるとむしろ、ドキュメンタリー映像にはその時の実際の音がついていなければならないと考えて、こういうものを「つくりもの」呼ばわりしてしまうわれわれの心性の方が奇妙にみえなくもない。そもそもドキュメンタリーというものが、ラジオやレコードと結びついた「音の文化」の残像を残す存在だったことを考えれば、音を別扱いし、それを優先して構成してゆく考え方があっても当然だ。映像優先の切り貼りで音が分断されてしまうことに当時の人々が我慢ならなかったことは十分に想像できる。今のわれわれの心性は、テレビの中継映像にすっかり慣れ、音に注意が向かなくなってきた結果であり、そういう側から、実際とは違う音楽が流れているなどという批判をしても、些細なことにこだわった本末転倒の議論として一蹴されてしまいそうだ。
こういう話は、人々の感性がメディアの進展とともに変わる典型的な例なのだが、こうしてみると、メディアの進展で新たに視野がひらかれた面もあれば、逆に視野が狭まり、みえなくなってしまったこともかなりあるような気がしてくる。実際の音と違うなどというつまらないことにこだわることが、表現の多様な可能性をつぶしているのでは、などとも考えてしまう。
一九六四年と二〇二〇年の二つの東京オリンピックの間に横たわっているのは、そういう懸隔ではないかという気がしてくる。今回、国立競技場問題、エンブレム問題と、始まる前からいろいろケチがついてしまった。二六〇〇億円はいかにも高額に過ぎるし、あのエンブレムの作者を弁護するつもりもないが、受けとめる側のわれわれの視野や感覚が少しばかり矮小化している面もありはしないだろうか。
競技場が安上がりで済むのは結構なことだが、そのことばかりに目を奪われていると、夢のあるような話はすべてどこかに消え失せてしまうだろうし、類似作品を探すことばかりに血道を上げていれば、元来先人の知恵から学ぶことなしには成り立つはずのない創作活動を窒息させてしまうことにもなりかねない。インターネットで多様な情報が行き渡ったのはもちろん悪いことではないが、そのことが視野の狭まりや本末転倒につながる危険も忘れてはならない。著作権、個人情報など、そういうことが現代に通底する病弊なのではないかと感じさせられる局面は少なくない。今のわれわれからみると、いかにも素朴で天真爛漫にみえる市川監督のオリンピック映画だが、あのような時代はもう終わった、と片付けてすむ話ではない。
[筆者]
渡辺 裕(東京大学大学院人文社会系研究科教授)
1953年生まれ。東京大学文学部卒業、同大学大学院修了。玉川大学文学部助教授、大阪大学文学部助教授などを経て現職。専攻は音楽社会史、聴覚文化論。著書に『聴衆の誕生』(春秋社、サントリー学芸賞)、『日本文化 モダン・ラプソディ』(春秋社、芸術選奨文部科学大臣新人賞)、『歌う国民――唱歌、校歌、うたごえ』(中公新書、芸術選奨文部科学大臣賞)、『サウンドとメディアの文化資源学』(春秋社)など。
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