なぜ「共感」は、生きづらさを生んでしまうのか...「伝える」よりはるかに強い「伝わる」の魔法の力
──翻訳を経て、『センス・オブ・ワンダー』との向き合い方に変化はありましたか。
当初、カーソンの自然観について懐疑的な気持ちが少なからずありました。ところが、彼女のテキストをくり返し読むうちに、日常生活でも影響を受けていきました。身近な例だと、カーソンとその大甥のように、僕も4歳の長男と一緒に双眼鏡で月を見るというように。
すると『センス・オブ・ワンダー』で記述されていてもおかしくないような出来事が、日常生活で起こってくるんですね。やがて僕の中で彼女の文章の続きのようなものが自然と生まれはじめていった。この続きを14か月にわたり「ちくま」で連載できたのは、本当に楽しい経験でした。
連載後にカーソンのテキストに戻ると、印象がまったく変わっていた。批判的に読もうとした、自分の「外側」にあったテキストが、まるで自分の記憶のように感じられることがあった。「内側」から出てくる言葉を訳していくような感覚に変化してからが、本当の意味での翻訳でした。この翻訳と書き継いだ文章全体を一冊にしたのが本書です。「翻訳とそのつづき」というこの形式自体が、世の中にあまりない新しい試みになっていると思います。
──『センス・オブ・ワンダー』で懐疑的に思っていた自然観とはどんなものだったのでしょう?
自然の美しさの特定の面が強調されていて、あまりに「清潔」な自然観だと受け止めていました。鳥の鳴く声を聞き、夜空を見上げる場面はあっても、「食う・食われる」の関係や、死者の話は出てこない。僕は、生み出す力と同じくらい、滅ぼす力も自然の偉大な力だと思っています。生と死、美しさと怖さ、そうしたすべてを包摂した自然観を大切にしながら、このテキストを書き継いでみようとしました。実際にこれを試みて感じたことは、カーソンのテキストが、多様な自然観によって書き継がれていく可能性に開かれていることです。『センス・オブ・ワンダー』はそういう意味で、とても懐の深いテキストだと思います。
──カーソンに対してはどのように捉えていますか。
カーソンは幼い頃から本を読むこと、文章を書くことが大好きでした。大学では英文学科に進みましたが、大学で出会った生物の先生から学んだ進化論が特に、カーソンの文学的創造力を刺激したようです。1930年代当時に進化論を学べる機会は稀でした。