「教養=知識量」の勘違い──AIに仕事を奪われない「転の思考」を身に着ける読書術とは
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<知識量を教養というのであれば、誰もGoogleには敵わない。本当の教養とは「土を耕すこと」と同じ。外部の空気があたって自分が変わり、「いい人」になるためには>
「本は百冊あればいい」と新刊『百冊で耕す 〈自由に、なる〉ための読書術』(CCCメディアハウス)で述べるのは、朝日新聞の編集委員で稀代の読書家でもある、近藤康太郎氏。読書を日常に組み込み、本物の教養を培うコツについて、近藤氏に聞く。
──動画で効率よく知識を吸収する「ファスト教養」について、どう思いますか?
「教養」という言葉は単純に「知識」という意味で使われがちです。知識が多い人のことを教養がある人だという。しかし、私にとっては知識と教養は別物です。
映画のストーリーを要約した「ファスト映画」など、「ファスト何某」は教養の入り口にはなるかもしれません。しかし、動画や音声、テレビ番組は答えや結論があらかじめ用意されたメディアです。
それに対して、本は必ずしも結論を得るためのメディアではありません。ゴールに到着するためではなくスタート地点に立つために読む。答えを見つけるためでなく、自分だけの問いを立てられるようになるために本を読む。それが本を読む意味です。
誰かが答えを用意した動画を大量に視聴したところで、本物の教養人にはなり得ないでしょう。もし知識量を誇って、それを教養というのであれば、世界でいちばんの教養人はGoogleということになります。
──多忙な現代人であってもビジネス書や自己啓発書などの需要はいまだ大きいです。大変な読書家の近藤さんにとって、読書は仕事にどう役立っていますか?
もしかすると「本を読むことで知識が得られ、取材での雑談力が上がり、アウトプットが変わる」という答えを想定されていたかもしれませんが、そうではありません。私にとっていちばんの実益は「作家/思想家の思考の構造」で考えられるようになったことです。
私は仕事の資料として使う以外、ビジネス書や自己啓発書はほとんど読みません。読むのは古典です。なぜなら古典は1、2年で消えるようなものではなく、時代を超えて読み継がれてきたという実績、普遍性があるから。
古典となり得た一流の知識人に憑依され、その思考法をなぞって自分の考えを深めることができるようになる。これはライターに限らず、どんな仕事をしている人にとっても助けとなる、読書の大きな現世御利益です。