究極の遅読は「写経」──人生を豊かにする「遅読」4つのテクニックとは?
(3)音読する──古典、漢文に近づく
速読法では音読してはならない。遅読でも基本的には黙読するのが望ましい。だが、どうしても意味の取れない本、読めない本は、音読するのがひとつの手かもしれない。
先にも引いた源氏物語を、わたしはあるとき、むしょうに読みたくなった。現代語訳ではなく、原文で、紫式部の文章で読みたい。
しかし、これはきわめて難事だった。紫式部は、敬語の教科書といわれるほどにきらびやかで正確な敬語を使い分けて書いた。
それはすなわち、主語を省略しまくっていることも意味する。平安朝の教養ある貴族は、敬語の使い方で主語や目的語が特定できる。だから、わざわざ書く必要はない。かえって煩瑣(はんさ)になるので省く。
つまり、この本は、読者を選んでいるのだ。昭和文学の大家である正宗白鳥も、源氏物語を「古今東西にあり得ない最高の小説」と称えているが、白鳥は、アーサー・ウェイリーによる英語訳で読んでいた。そして、式部の文章はとても読めないとも言っている。
文学史上の大教養人ですらそうなのだから、わたしが苦労するのはあたりまえ。であれば、堂々と、ゆっくり、音読する。現代語訳を先に読んで参考にするのがいい。脚注も同時に読んでおく。
なにも大学受験をするわけではない。現代語訳を先に読んで、大意をつかみ、ゆったりした気持ちで、楽しんで、朗々と声を響かせる。わたしのお気に入りは、風呂場で朗読することだ。声が響く。
強調しておかなければならないが、わたしはなにも、高校時代に古文や漢文の成績がよかったわけではない。高校にはほとんど登校さえしなかったので、全般的に成績は悪かったが、とりわけ古文は苦手だった。
それがいま、この方式で式亭三馬を読み、西鶴を読み、本居宣長、上田秋成、世阿弥、鴨長明、吉田兼好、平家物語と時代をさかのぼってきて、世界に冠たる宮廷文学の最高峰を音読している。こんなことは、だれでもできる。
こつがある。ひとつだけある。あきらめないこと。続けること。つまり、馬鹿になることである。
そもそも、昔の人の読書も、これに似たものだった。論語、孟子、大学、中庸、詩経、書経、易経、春秋、礼記。これらの書物を、 素読(そどく)する。ただ、声に出す。朗読する。声帯を震わせる。
内容など分かっていない。いずれ分かるときがくるのかどうかも、分からない。気が遠くなるような読書体験だ。
これを、すべての読書でまねしようとは思っていない。ただ、源氏物語や論語や聖書、仏典などは、音読するだけで気持ちのよくなるリズムが埋め込まれているものだ。そうでもなければ、1000年、2000年と読み継がれていない。
本を読むとは、結局、人類を信じるということだ。人間に信をおくということだ。自分の判断力などあてにしない。しかし、わたしたちの先輩は信用する。いままで人間が読み継いできた本は、安心して、ゆっくり、意味が分からずとも、音読する。時間ほど、世の中に信用できる批評家はいない。