社会をよりよく変えるために「権力」を使おう──その前に3つの誤解とは?
POWER, FOR ALL
「パワーを有している」と思う人を5人挙げるよう学生に指示すると、9割の確率で何らかのヒエラルキーの最上位に位置する人々の名前が挙がる。ところが実際には、多くの企業幹部やCEOが自身の率いる組織内の問題に手を焼き、筆者らの元に相談に訪れる。
最後に3つ目の、そして最も広く信じられているであろう誤解は、「パワーは汚れた存在であり、それを巧みに使いこなすには人を欺き、強権を発動し、冷酷に振る舞わなければならない」というイメージだ。
パワーをめぐる複数の誤解が積み重なると壊滅的な事態に至る。自由で健全な生活を脅かす権力の乱用に気付いて未然に防いだり、食い止めたりするのが難しくなるためだ。その結果、私たちは私利私欲にまみれた一部の人々に全体の運命を決める権限を委ねてしまうというリスクを冒し、しかもその事実に気付いてさえいない。
歴史を振り返れば、庶民の命や自由をないがしろにする暴君の例は枚挙にいとまがないが、独裁体制は今も世界各地で続き、庶民は基本的な人権さえ奪われている。民主主義体制においても、苦労して勝ち取った自由は極めてもろい存在だ。既得権益を必死で守ろうとする一部の特権階級にパワーが集中するリスクが付きまとうためだ。
時代を遡(さかのぼ)ること500年以上、15世紀のイタリアの政治思想家ニッコロ・マキャベリが著した『君主論』は、現在に至るまで多くの権力者やその座を狙う人々に愛読されてきた金字塔的な作品だ。マキャベリは、まさにそうした人々に向けて「君主論」を書いたが、「君主論」と本著の大きな違いもその点にある。
本著はパワーを持つ強者だけに向けた、強者についてのみを論じる本ではなく、全ての人を対象としている──歴史的に、そして今もなおパワーから排除されている集団を含めて。長年パワーと無縁だったからといって、パワーを持てないわけではない。パワーは万人のものなのだ。
パワーを基本要素に分解していくと、たった2つの重要な問いに答えるだけで「誰が、なぜパワーを有しているのか」を分析できることに気付く。「人々は何に価値を見いだすのか」、そして「その価値あるリソース(財産)へのアクセス権を誰がコントロールしているのか」という2つの問いである。
パワーの基本原理
ここではまず、パワーの力学──どんな要素がパワーを構成し、それがどう作用するのか──について見ていこう。