イギリス緊縮予算は危うい賭け
過去30年間、先進国ではテクノロジーが発展し、人件費の安い国への業務のアウトソーシングが盛んになった。さらに企業は「生産性の向上」(少ない人員に多くの仕事をさせて経費を節約すること)を追求した。その結果、イギリス(それにアメリカ)では完全雇用はほとんど不可能になった。
イギリスでは、「ニューレーバー」を旗印に掲げた労働党政権が雇用を創出した。直接的にはナショナル・ヘルス・サービスや教育、インフラに対する公的支出を増やし、間接的にはシェフィールド・フォージマスターズ社のような中小企業と日産やシーメンスのような大企業に対する資金援助や税控除を行うことで、長期間にわたり失業率を低く抑えた。もしトニー・ブレア元首相やゴードン・ブラウン前首相が公的支出を絞っていたら、失業率は2桁に達していたはずだ。
さらに規制緩和と政府の放任主義によって、金融サービス業界が野放図に拡大した。だが金融業の「サービス」は、もっぱら投機筋を儲けさせ、連中がおもちゃ代わりに購入するヨットのメーカーや高級外車の販売店を潤すだけだ。
投機マネーが生産的な投資に回る時代はとっくの昔に終わっている。シェフィールド・フォージマスターズ社が公的融資を申請したのは、民間の資金が調達できなかったからでもある。
若者と中高年の仕事はない
だが、ここで理論や数字を詳しく論じる気はない。現実の生活は経済学の教科書には書かれていないからだ。代わりに象徴的なエピソードに目を向けてみよう。
まず、米ニューヨーカー誌の5月24日号の表紙。名門大学出身らしい若者の部屋に博士号の証書が飾ってある。だが、部屋をのぞき込む両親の表情は不安そう。息子の教育に大金をつぎ込んだのに、就職先が見つからないからだ。
次は6月1日付のニューヨーク・タイムズ紙。クリントン政権で労働長官を務めた経済学者のロバート・ライシュが、政府に代わって「起業家精神」が雇用を創出しつつあると指摘している。ある調査によると、過去3年間は景気後退にもかかわらず事業を始める起業家が驚くほど多かった。
その主力は50〜60代で、転職先が見つからない失業者か、金融危機で401k(確定拠出型企業年金)の受給見込み額が激減した人々のどちらかだと、ライシュは指摘する。彼らが自営業のコンサルタントや下請け業者として稼ぐ額は企業に勤めていた時代よりずっと少なく、従業員時代にあった諸手当も受け取れない。
2つのエピソードから分かるのは、30歳未満と50歳以上の人々にフルタイムの仕事はもうないということだ。この雇用の落ち込みを誰が埋めるのか。イギリスの新政権は、政府ではないと確信している。そんなことは市場が許さないというのだ。だが、政府がやらなければ誰がやるのか。
ここで最後のエピソードを紹介しよう。サッチャー主義が絶頂期を迎えていた88年初め、私はリバプールを訪れて街とサッカーの関係を取材した。当時、この街に本拠を置く2つのサッカーチーム、リバプールFCとエバートンは絶好調だったが、それ以外の状況は悲惨そのものだった。
公共サービスの削減と警官の人種差別、社会に蔓延する不安感が原因になって発生した暴動の傷跡は、まだ癒えていなかった。仕事に就けない若者たちは街を離れ、税金の担い手が減少していた。地元紙リバプール・エコーを見ると、求人広告欄は1ページのみで、死亡告知欄は2ページだった。