「反権力」の時代の終わり
振り返って見れば、ヨーロッパの絶対王政のころから近代の国民国家にいたるまで、国家というシステムは「上意下達」だった。システムの管理者は権力者として上座にいて、国民を上から指示し命令し、規範を押しつけていた。管理する側とされる側は、分離した存在だった。だから「殺す側と殺される側」「権力者と反権力」といった二分論が成立したのである。
しかしいま起きているマイクロパワーの台頭は、まったく違う権力構造をつくり出そうとしている。国家の力が相対的に下がり、さまざまなマイクロパワーが相対的に増大し、そこでは権力は上からやってくる所与の力としてではなく、さまざまなパワーの相互作用というようなものへと変質していくことになる。
もちろん政府や自治体が統治機構としての意味をなくすわけではない。しかしそれらの統治機構は、人々や組織などさまざまなパワーの間の相互作用としてしか生成されない。マイクロパワーが相互につながり、さまざまなパワーゲームを行うことによって生まれてくるネットワーク的なものが、新しい統治の形態となる。
このネットワーク化された統治構造を下から支えるのが、21世紀型に最適化されたグローバル企業となるだろう。しかしこれら新しいグローバル企業はかつてのような上から支配する権力としてではなく、下から支えるインフラとしてのパワーとして成立するようになる。インフラは大きな収益を企業にもたらすが、規範や法律を目に見えるかたちで利用者に強制するわけではない。おまけにこのインフラは、市場原理によって常に入れ替えられていくから、絶対的な権力にはなり得ない。
2009年、作家の村上春樹氏はイスラエルの文学賞「エルサレム賞」授賞式に出席し、英語でこうスピーチした(翻訳は『文藝春秋』2009年4月号に掲載されたもの)。
「もしここに硬い大きな壁があり、そこにぶつかって割れる卵があったとしたら、私はつねに卵の側に立ちます。そう、どれほど壁が正しく、卵が間違っていたとしても、それでもなお私は卵の側に立ちます」
「ある場合には単純明快です。爆撃機や戦車やロケット弾や白燐弾や機関銃は、硬く大きな壁です。それらに潰され、焼かれ、貫かれる非武装市民は卵です。それがこのメタファーのひとつの意味です」
「我々はみんな多かれ少なかれ、それぞれにとっての硬い大きな壁に直面しているのです。その壁は名前を持っています。それは『システム』と呼ばれています。そのシステムは本来は我々を護るべきはずのものです。しかしあるときにはそれが独り立ちして我々を殺し、我々に人を殺させるのです。冷たく、効率良く、そしてシステマティックに」
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