コラム

「リスク」や「ケア」の言い換えが不可能な理由とは?

2013年07月02日(火)12時44分

 71歳の男性が「NHKは放送で外国語を使いすぎる」ために「精神的苦痛を受けた」として「141万円の慰謝料」請求の訴訟を起こしたそうです。この男性は「公共性の高いNHKが日本語を軽視」しているとして、具体的には「『リスク』や『ケア』など、外国語を使わなくても表現できる言葉」を多用していることを問題視しているようです。

 この主張ですが、一番の問題は現代の日本社会が、どうして「リスク」とか「ケア」という英語由来のカタカナ語彙を使わなくてはならないのかということを、全く理解していないということです。というのは、どちらも「適切な漢語も和語もない」ので仕方なく使っているという「純粋日本語的な事情」があるからです。

 例えば「リスク」を「危険」という「普通の漢語」にしてみましょう。そうすると、金融商品などの場合は「元本割れの危険のある商品」になりますし、企業経営の場合は「商品寿命短命化の危険を冒した新しい販売戦略」などということになります。

 どうでしょう? そんな怖い金融商品に投資するのはイヤだ、とか、そんな危険性のある経営方針を提案するなんて株主を軽視している、そのような拒否反応が、それこそ高齢者から飛んできそうです。どうしてかというと、「危険」という漢語には「ネガティブ(「否定的」では強すぎますね)なコノテーション(言外のニュアンス)」が付いてしまっており、それが漢字独特のビジュアルなイメージとして払拭できないからです。

 危険性はあるが、その危険性を評価し納得した上で、その危険を冒すという際には、残念ながら「危険」という漢語は不適当なのです。そこで「ニュートラル(この言葉も「中立的」というと軟弱なニュアンスがついてしまうので漢語よりカタカナの方が正確な意味が伝わります)なニュアンスを持つ『リスク』」という語彙が使われることになります。

 次の「ケア」に関してはもっと深刻です。この場合、カタカナを避けて言い換えるのであれば「看護」とか、もう少し柔らかい「お世話をする」という語彙になると思います。ですが、こうした語彙には「上下関係のコノテーション」がベタベタと付着してしまっています。

 例えば、少し介助の必要になった高齢者に対して「お世話させていただきます」などという表現をすると、場合にもよりますが「世話のできる人間が、世話の必要な人間に対して、世話をする」という「上から下への上下関係のニュアンス」が発生してしまうのです。「看護」とか「介助」あるいは「介護」などもそうです。

 ちなみに、この「世話をする」という言葉は、「世話をする側」が「上」で、「される側」が「下」という上下関係だけでなく、「世話をする側」も「させられている」という被害意識が霧のようにうっすらとかかるという危険な語彙でもあります。例えば「下の世話をする」とか「身の回りの世話をする」という表現などは、「世話をする側」の苦痛というニュアンスを伴うことが多いわけです。

 この種の「上下関係」や「被害意識」というのは、高齢者への介護だけでなく、例えば終末医療などの場合では非常に問題になります。それこそ「終末医療」などという表現は、本人はもとより周囲の家族にも精神的な苦痛を与えるからです。漢字で「終末医療」と書くと、本当に「死」に直面させられた際の悲嘆と落胆がその熟語に視覚イメージと共にベタベタと付着してしまうわけで、そこを「ホスピス・ケア」とカタカナにすれば本人も周囲も、あるいは医療従事者も相当に救済されるわけです。

 救急救命の場合の「トリアージ」などという言葉も、「選別」だとか「優先順位の決定」、あるいは「救命可能性の判定」などと漢語を交えてしまっては、それこそ「まだ息があったのに、他の患者を優先して見殺しにされた」という遺族の無念を惹起してしまうわけで、そのために「ニュートラル」な「トリアージ」というカタカナ言葉しか使えないわけです。

 単純化して言えば、「リスク」とか「ケア」という言葉は、高齢化社会を迎える中で、下の世代が上の世代の自尊感情を傷つけないように、あるいはネガティブな問題を直視する際に激しい感情の揺れを起こさないように、「余計なニュアンスがベタベタついてこない」言語表現を模索した結果、多用されるに至ったのだと思います。

 勿論、何でもカタカナ言葉にすればいいというのではないのは分かります。言語は変化するものであっても、変化に対して追いつけない人は切り捨てて良いとは言えません。また、カタカナ言葉に関しても、「ニュアンスをニュートラルにする」だけでなく、「複雑なニュアンスを付加する」方向で使われていたり、そのために正確な意味がぼやけている場合など、困った問題もあります。

 基本としては、漢語にしても、カタカナ言葉にしても、「1つの概念語で伝えたような気になってしまう」ことの危険性を理解して、複雑な概念に関するコミュニケーションはできるだけ「言い換えによる念押し」など「フルセンテンスでの確認」を取ることが必要だと思います。

 この問題ですが、日本語という言語の将来を考えるとかなり深刻な問題だと思います。例えば、「視覚イメージがドンドン肥大していく現象が果たして正しいのか?」という問題、あるいは「上下のヒエラルキーや好悪の感情などのコノテーションから自由になって、事実を直視する概念語をどう使いこなしてゆくのか?」という問題はたいへんに深刻です。こうした問題に関して「余りに使い勝手が悪い」ようですと、日本語という言語そのものの衰退につながっていく危険があるように思うからです。

プロフィール

冷泉彰彦

(れいぜい あきひこ)ニュージャージー州在住。作家・ジャーナリスト。プリンストン日本語学校高等部主任。1959年東京生まれ。東京大学文学部卒業。コロンビア大学大学院修士(日本語教授法)。福武書店(現ベネッセコーポレーション)勤務を経て93年に渡米。

最新刊『自動運転「戦場」ルポ ウーバー、グーグル、日本勢――クルマの近未来』(朝日新書)が7月13日に発売。近著に『アイビーリーグの入り方 アメリカ大学入試の知られざる実態と名門大学の合格基準』(CCCメディアハウス)など。メールマガジンJMM(村上龍編集長)で「FROM911、USAレポート」(www.jmm.co.jp/)を連載中。週刊メルマガ(有料)「冷泉彰彦のプリンストン通信」配信中。

あわせて読みたい
ニュース速報

ビジネス

NY外為市場=円が軟化、介入警戒続く

ビジネス

米国株式市場=横ばい、AI・貴金属関連が高い

ワールド

米航空会社、北東部の暴風雪警報で1000便超欠航

ワールド

ゼレンスキー氏は「私が承認するまで何もできない」=
あわせて読みたい
MAGAZINE
特集:ISSUES 2026
特集:ISSUES 2026
2025年12月30日/2026年1月 6日号(12/23発売)

トランプの黄昏/中国AI/米なきアジア安全保障/核使用の現実味......世界の論点とキーパーソン

メールマガジンのご登録はこちらから。
人気ランキング
  • 1
    90代でも元気な人が「必ず動かしている体の部位」とは何か...血管の名医がたどり着いた長生きの共通点
  • 2
    アジアの豊かな国ランキング、日本は6位──IMF予測
  • 3
    中国、インドをWTOに提訴...一体なぜ?
  • 4
    『SHOGUN 将軍』の成功は嬉しいが...岡田准一が目指…
  • 5
    アベノミクス以降の日本経済は「異常」だった...10年…
  • 6
    「衣装がしょぼすぎ...」ノーラン監督・最新作の予告…
  • 7
    中国、米艦攻撃ミサイル能力を強化 米本土と日本が…
  • 8
    【世界を変える「透視」技術】数学の天才が開発...癌…
  • 9
    海水魚も淡水魚も一緒に飼育でき、水交換も不要...ど…
  • 10
    赤ちゃんの「足の動き」に違和感を覚えた母親、動画…
  • 1
    90代でも元気な人が「必ず動かしている体の部位」とは何か...血管の名医がたどり着いた長生きの共通点
  • 2
    アジアの豊かな国ランキング、日本は6位──IMF予測
  • 3
    「食べ方の新方式」老化を防ぐなら、食前にキャベツよりコンビニで買えるコレ
  • 4
    『SHOGUN 将軍』の成功は嬉しいが...岡田准一が目指…
  • 5
    中国、インドをWTOに提訴...一体なぜ?
  • 6
    【過労ルポ】70代の警備員も「日本の日常」...賃金低…
  • 7
    海水魚も淡水魚も一緒に飼育でき、水交換も不要...ど…
  • 8
    批評家たちが選ぶ「2025年最高の映画」TOP10...満足…
  • 9
    待望の『アバター』3作目は良作?駄作?...人気シリ…
  • 10
    アベノミクス以降の日本経済は「異常」だった...10年…
  • 1
    日本がゲームチェンジャーの高出力レーザー兵器を艦載、海上での実戦試験へ
  • 2
    90代でも元気な人が「必ず動かしている体の部位」とは何か...血管の名医がたどり着いた長生きの共通点
  • 3
    人口減少が止まらない中国で、政府が少子化対策の切り札として「あるもの」に課税
  • 4
    アジアの豊かな国ランキング、日本は6位──IMF予測
  • 5
    日本人には「当たり前」? 外国人が富士山で目にした…
  • 6
    【銘柄】オリエンタルランドが急落...日中対立が株価…
  • 7
    日本の「クマ問題」、ドイツの「問題クマ」比較...だ…
  • 8
    「勇気ある選択」をと、IMFも警告...中国、輸出入と…
  • 9
    【衛星画像】南西諸島の日米新軍事拠点 中国の進出…
  • 10
    「食べ方の新方式」老化を防ぐなら、食前にキャベツ…
トランプ2.0記事まとめ
Real
CHALLENGING INNOVATOR
Wonderful Story