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冷泉彰彦 プリンストン発 日本/アメリカ 新時代
昭和的「クラシック音楽の教養」を埋葬する
ドイツのクラシックの名歌手ディートリヒ・フィッシャー=ディースカウ(DFD)氏の訃報に続いて、日本での声楽界の重鎮であった畑中良輔氏の訃報、更には評論家の吉田秀和氏の訃報にまで接するとは思いませんでした。
思えば1970年代から80年代にかけて、DFD氏は何度も日本にやってきてシューベルトの『冬の旅』に代表されるドイツ歌曲を紹介し、声楽の専門家であった畑中氏がそれを批評し、文学的な表現を加えた吉田氏が加えた評論は更に幅広く読まれるという時代があったわけです。そうした時代は、この3人の訃報によって遠い過去となりました。
DFD氏について言えば、氏の歌唱は理知的に過ぎて冷たいなどと言う人もいますが、例えば『冬の旅』のように絶望的にレベルの低い歌詞と、絶望的にレベルの高い作曲に断裂した楽曲の場合、あそこまで表現の幅を広げていってフィクション性を高め、純粋なアートにしてしまうという行き方は「あり」だと思います。
DFD氏が、今はなくなってしまったSという招聘事務所とのつながりで、日本に度々やってきては荒稼ぎをしたという悪口も当時は聞かれました。ですが、そうした経済的安定があってはじめて、巨大歌劇場で声をすり減らすことなく、歌曲の研究と歌唱、録音に没頭することができたというのは、結果的には良かったのだと思います。
吉田氏に関しては、膨大なエッセイが残されており、私は全てを読んだわけではありませんが、全く的はずれなことは言っていないとは思います。ただ、その表現は余りに文学的でした。例えば、こんな感じです。
「(ベートーベンの作品111のソナタについて)近年は、これをきいていると、言いようのない悲しみを感じるようになってきた。(中略)それはまた、私たちが純潔なものにぶつかった時、感じるあの由来のよくわからない「悲しみ」に似ていなくもない。この変奏曲は、あまりに純粋で、個人的恣意が全くしめだされているという印象を与えもするのだから、よけいに私たちの身にしみるのかもしれない。」(「私の好きな曲」より)
このベートーベンの最後のピアノソナタ(第32番)というのは立派な曲ですから、吉田氏がこの曲を紹介しようとしたことを非難するつもりはありません。ですが「純潔なものにぶつかった時」の「悲しみ」とか、「純粋で、個人的恣意が全くしめだされている印象」などというのは、チンプンカンプンで全く何を言っているか分からないのです。
この「悲しみ」うんぬんというのは、ベートーベンの楽曲から由来するというよりも、若き日には詩人の中原中也や大岡昇平などと親交があったという吉田氏の個人的な、そして文学的な言語経験の反映であって、それ以上でも以下でもないと思うのです。
問題は、そうした「印象論」の中で音楽が理解される、それが「昭和のクラシック音楽の教養」という形になっていったということです。「大作曲家の晩年の作品には宗教的な境地がある」とか「ロシアやチェコの音楽はご当地のオーケストラに限る」あるいは「作曲家が病床で書いた曲には現世への惜別の思いが込められている」といった「小さな伝説」の知識を積み重ねることが、音楽を聞いたことになるのです。
音楽をそのまま、その構成や、躍動や、呼吸感などから受け止め、そのような要素の構造体としての楽曲にひたすら「美」を与えるために演奏家が行った設計と、その設計を音にするための表現を楽しみ、その先に作曲家の巧妙な創作の素晴らしさを理解してゆく、そうした「音楽を音楽として」楽しむ習慣は、なかなか一般的にはならなかったのです。
勿論、音楽というのは趣味の世界のものですから、知識や印象論を重ねるような聞き方であっても、それもまた個人の自由であることは否定できません。ですが、例えばあの80年代、企業にも個人にもカネがあった時代に、そしてDFD氏をはじめとして世界の一流オーケストラや歌劇場がひっきりなしに来日した時代に、もう少し「音楽を音楽として楽しむ」動きができていたら、という痛恨の思いがあるのです。
強く感じるのは2点です。1つは、吉田氏とそのファンに代表される「印象論」を中心とした「教養」というのは限りなく個人の世界に閉じていたということです。音楽の裾野が広がることで、例えば全国の高校や中学のブラスバンドに弦楽を加えてオーケストラにするとか、外タレだけでなく日本の演奏家にも関心が向かい、その結果として徒弟制を越えた育成の仕組みができるとか、より社会と音楽の関わりが豊かになるような動きは限られていました。
日頃は高価なヘッドホンをかぶって「伝説との対話」にのめり込んでいたファンが、有名な演奏家が来るとサントリーホールに集結して、ヘッドホンと同じような「不気味な静寂」を作って音楽に集中する・・・そこに留まっていたというのは、やはり勿体なかったと思うのです。
もう1つは、この奇妙な「印象論と文学による教養」は、ある種の知的な人々のストレス解消になっていたということです。80年代の日本経済は、大変な繁栄を謳歌してはいましたが、企業内の風土はまだまだ前近代的で、奇怪な集団主義や、複雑な社内政治などが横行する非効率なものでした。そうした企業活動に参加する中でストレスを感じていた人々が、こうした「教養の世界」にのめり込むことで、精神のバランスを確保していたのです。
そうした人々の中には、抽象的思考や論理的思考のできる人が多く、彼等が本気になって取り組めば企業組織の前近代性などは克服できたかもしれません。「純潔なもの」がどうのこうのという吉田氏の解説に酔いながら、ベートーベンのソナタを聞いてストレスをごまかすのではなく、企業なり官庁なり学校といった、本業の組織の中にある非論理性を直視して戦っていくこと、それがもう少し早く出来れば、例えば電機メーカーなどが韓国勢に地位を脅かされることもなかったかもしれないですし、教育の国際化なども可能になっていたはずです。
音楽の趣味が個人の世界に「閉じこもる」ものではなく、他者とつながるようなものであれば、その「つながり」の中から変革へのパワーもアイディアも生まれたかもしれません。
勿論、吉田氏には全く責任は無い話です。ですが、吉田氏的な「教養主義」というものが、人々が積極的に他者に関与してゆくことには逆行し、また日本の前近代性を「感じるがゆえのストレス」をごまかすために消費されたことへの反省は必要だと思います。昭和の「クラシック音楽の教養」というのは、今こそ埋葬するべき時なのです。
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