コラム

アメリカが拉致問題などで「日本の立場」を十分に理解できない理由

2012年05月11日(金)12時59分

 北朝鮮による拉致被害者家族連絡会のメンバーが、米国務省でキャンベル国務次官補と面会した際、キャンベル氏が、北朝鮮の拉致の問題と同時に国際結婚の破綻に伴う「日本人親による子の連れ去り」問題に言及、並行して親権の問題を考えて欲しいと発言したという報道があります。

 その場にいた家族会メンバーは「親権の話は夫婦間の問題だが、拉致は国家的な犯罪。北朝鮮で命の危険にさらされている人間の問題を親権の問題と同一視するのは納得できない」(産経の電子版による)と反論したそうですし、米国国務省は後で「両者は別次元の問題」だという見解を出したようです。

 この問題ですが、他でもないキャンベル次官補の口からポロッと出たというのは、ある種アメリカ国務省のホンネを表していると見るべきでしょう。そういう言い方をしますと、憤りを覚える方もあるかもしれませんが、何しろこれは外交であり、アメリカという相手がある話ですから、相手側の発想法を分析しておくことは必要だと思うのです。

 アメリカがこの問題における「日本の立場」が理解できないのには1つの理由があると思われます。それは、成人した人間、次世代の家族を構成している人間を親が「奪還する」ことの正当性について、どうにもピンと来ていないという問題です。

 数年前に、アメリカの外交関係者から愚痴を言われたことがあるのですが、「拉致問題が凶悪なのは分かるが、何をもって解決というのかが分からない。完全な原状回復は無理だろうし」というのがその内容でした。彼は、何も相手が独裁政権だから諦めろと言っていたのではありません。ただ、仮に理不尽な拉致をされたとしても、拉致をされた先で結婚し子供もある、つまり向こうに日本側の知らない人生も生活もあるケースについては、親や兄弟として「完全な原状回復としての奪還」というのはどうもピンと来ないというのです。

 アメリカの国務省は「日本海からそっと近づいて、いきなり人間を麻袋に入れて船に乗せて運んでしまう」という拉致事件の凶悪な側面を知らないわけではないのです。仮にそうであっても、成人したら、更には結婚して次世代の家庭を持ったら、それは親からの独立だという感覚が強い常識としてあるので、老親による成人した子どもの「完全なる奪還」という目標設定には感情移入できないのだと思います。

 ブッシュ前大統領が横田さん一家の件について、詳しく理解した上で同情を示したというのは事実ですが、これはあくまで個別の家族のドラマとしてブッシュという個人が理解したということです。拉致問題全般について共和党は理解があるが、民主党は冷たいというようなことではないと思います。

 似たような話としては、宗教の問題があります。歴史が比較的浅く布教活動に積極的な宗教団体に入信した子供を、親が必死になって「奪還」するとか、その際に「洗脳を解く」ということが日本ではよく話題になります。ですが、この種の話もアメリカではピンと来ていないのです。特に子供が18歳以上の場合は、個人の信仰の自由に対して、親が「奪還」へと行動を起こすことには全く共感していないように思われます。

 教団側が相当にロビーングをした結果でもあるようですが、「成人した子どもの信仰の自由を阻害する親の行動が放置されており、社会として信教の自由確保に積極的ではない」などという理由で、米国務省から日本は「要注意国」扱いされていたりするのです。これもまた妙な話ではあります。

 一方で、国際結婚破綻に関する子の略取の問題に関しては、今回アメリカ側は「夫婦間の問題であり、北朝鮮の拉致とは同列には扱わない」という「外交上のコメント」を出してはいます。ですが、これもまたホンネのところでは決して個々の問題とも思っていないのです。

 例えば「離婚の際に親権が母親に行くような家裁決定が圧倒的に多い」とか「親権のない親の面会権確保に強制力がない」あるいは「親権のない方の親が再婚したら子への面会を自粛させられる」といった「社会慣習」については、公式に国家ぐるみの「犯罪」とまでは言っていませんが、アメリカの国務省としては「注意喚起情報」として正式に取り上げています。つまり日本社会全体の問題として憤っているのです。

 私自身について言えば、3点目の親権の話はアメリカの主張に分があり、日本は民法改正をして離婚法制を世界標準に合わせた上でハーグ条約を批准するべきと思っていますが、拉致と宗教の話に関しては、アメリカの態度には普遍性は感じません。

 いずれにしても、こうしたアメリカ人の発想法というのはホンネの部分ではなかなか変えられないものだと思います。外交にあたっては、そうした価値観や文化の違いを前提に、実利の問題としていかに共闘を組むかをもっと考えて行かないといけないように思います。

 一方で、この件と並行して日本国の総務省から出向中の駐米外交官が、こともあろうに家庭内暴力で逮捕されてしまい、しかも報道によれば相当に不利な局面であるのに司法取引に応じていないという報道がありました。

 地区検事は会見で「外交特権の対象外であることを司法省とも慎重に協議した上での立件だ」と述べた上で、妻に対して「車から突き飛ばした」とか「スクリュードライバー(ねじ回し)で手のひらを傷つけた。証拠写真もある」などと詳細を挙げており、保釈金も35万ドル(2800万円)に増額されているということから、相当深刻な立件になりそうです。

 これも「家庭内の一件」では済まない問題だと思います。アメリカでは配偶者への具体的な暴力は刑事事件として立件され、有罪になれば厳罰に処されるということ、更に司法取引を拒んで陪審に付され有罪になった際には相当に厳しい結果を覚悟しなくてはならないということは常識だと思います。

 この人物はサンフランシスコ総領事館の副領事だということですから、安全保障上に関わる国家レベルの外交には関与していないかもしれませんが、例えば国際結婚破綻後のトラブルとか、誤解から来る児童虐待容疑など、個別の案件に関する外交的な処理は担当していたはずです。

 にも関わらず、米国の価値観や法制への理解が甘い人間が外交をやっていたということは、状況として深刻だと思います。勿論、事件そのものは個人の資質に帰する問題ですが、在外公館の風土として全く反省が必要ないとは言えないはずです。先ほどの3つの問題の背景にある価値観を理解した上での戦略的な外交を目指すために、外交の現場のレベルアップを求めたいと思います。

プロフィール

冷泉彰彦

(れいぜい あきひこ)ニュージャージー州在住。作家・ジャーナリスト。プリンストン日本語学校高等部主任。1959年東京生まれ。東京大学文学部卒業。コロンビア大学大学院修士(日本語教授法)。福武書店(現ベネッセコーポレーション)勤務を経て93年に渡米。

最新刊『自動運転「戦場」ルポ ウーバー、グーグル、日本勢――クルマの近未来』(朝日新書)が7月13日に発売。近著に『アイビーリーグの入り方 アメリカ大学入試の知られざる実態と名門大学の合格基準』(CCCメディアハウス)など。メールマガジンJMM(村上龍編集長)で「FROM911、USAレポート」(www.jmm.co.jp/)を連載中。週刊メルマガ(有料)「冷泉彰彦のプリンストン通信」配信中。

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