コラム

「安全は客観的、安心は主観的」というのは逆ではないのか?

2011年11月30日(水)12時01分

 11月も駆け足で過ぎ去り、困難に満ちた2011年も明日から師走を迎えます。師走といえば、今年の流行語というのが毎年この時期になると話題になりますが、今年の場合はそんな「のんきな」総括というのには違和感を感じえません。ですが、仮に一つだけ今年を象徴する言葉を選ぶとしたら、私は「安全と安心」だと思います。

 最初は抵抗があったのだと思いますが、例えば細野豪志氏や枝野幸男氏あたりは、ある時期から「安全と安心は別」というような言い方を始めており、いつの間にか、その2つの概念は「別」だというニュアンスで「安全と安心」という言葉がひとり歩きを始めたように思います。この時点で、日本語特有の「濃厚なニュアンス」が付加されたわけです。

 まず言葉の意味としては、「安全とは科学的な根拠に基づいた基準によるものであり、安心とは主観的な感情論である」ということです。これに加えて、細野氏に代表される現在の民主党政権にとっては「感情的な安心を追い求める世論にも十分配慮したい」という姿勢が加えられる一方で、同時に「感情的な安心追求にも配慮するが、科学的な安全というのも政策決定の根拠として捨てるわけではない」というダブルスタンダードがビルトインされているわけです。

 ダブルスタンダードというと、人聞きが悪いかもしれませんが、裏返して言えば「我々は科学的な根拠に基づいて、直ちに健康被害が起きるとは思わないし、将来的にも非常に低い確率でしかも個別には原因が特定不可能な形でしか健康被害は発生しないと思う。だが、そうした科学的な根拠を越えて、更に放射線について過敏になる世論の存在も知っているので、こちらにも十分に配慮したい」と言っているわけですから、やはりダブルスタンダード以外の何物でもありません。

 これは問題だと思います。まずもって、こうした姿勢には「世論を見下す」態度があり、そうした歪んだエリート意識は、社会的な合意形成を困難にしているということがあります。これに加えて、私はこの認識は間違っていると思うのです。

 安全が客観的で、安心は主観的というのは逆なのではないでしょうか?

 例えば食品に残留している放射性セシウムについて「1ベクレルでもイヤ」と思っている人は「私は偉い科学者が科学的な根拠に基づいて作った基準では、1ベクレルなら安全だというのは知っているが、自分の直感的な感情論からは安心はできていない」などと思ってはいないのです。ただ、この人の考えとして「1ベクレルでも安全ではない」と思っているわけです。

 つまり、「安全」の方が主観的なのです。というのは、人の数だけ「安全」には種類があるからです。「自然放射線以下なら安全」「いや自然放射線にも色々ある」「太平洋を飛行機で往復する際に浴びる線量と同じだから安全」「いや飛行機で成層圏を飛ぶのも危険」「検出されたストロンチウムは60年代の核実験由来のものだから安全」「いや核実験から出た放射性物質は今でも危険」まあ色いろあるわけですが、科学的なものは「安全」で主観的なものは「安心」という区別はできないのです。どの意見も大真面目で「安全」と「危険」について語っているわけです。

 放射線だけではありません。津波で倒壊した防潮堤の再建に関しても「12メートルなら安心だが、1000年に一度の津波ということを考えると実際は8メートルでも安全」などという議論もあるようですが、12メートル論者にとっては「最低12メートルが安全」であり、8メートルでいいという人には「8メートルで安全」なのです。

 これは日本だけの話ではありません。例えば1963年にキューバがアメリカ本土を射程に入れた核ミサイル基地を建設した際には、自宅の庭にシェルターを掘ったアメリカ人が大勢いました。また9・11の直後には、ニューヨーカーや周辺の住民は別として、他州などではニューヨークには近づいてはいけないと思った人もたくさんいます。日本人でも著名な政治家で、9・11の時にワシントンに出張中だった人が、身の危険を感じてホテルの最も頑丈な部屋にこもったという話もあります。

 こうした例は正に「身の危険を感じた」ということなのでしょうが、この「危険察知」というのが主観的なものであり、また人の数だけバリエーションがあるということを考えると、その「危険」の反対である「安全」というものが実は主観的で千差万別だということは納得していただけるのではないかと思うのです。

 では「安心」というのは何なのでしょう。これは私は「社会的な合意」だと思うのです。危険や安全の感覚には価値観や直感など、主観的な要素が入るわけで、社会的な統一は不可能です。ですが、立場や直感的な判断は異なっても、社会として制度的に必要な規制なり対策が取られているということに広範な合意ができていること、それが「安心」だと言えるように思います。

 例えば、火事を経験して怖い思いをした人などで、旅館では厨房の近くの部屋には泊まらないとか、必ず非常口の点検をするというような人がいます。その一方で旅館やホテルの防火体制にはそんなに敏感でない人もいます。正に「安全」は人それぞれなのですが、では敏感な人は今の消防署の数を倍にせよとか、消防車の数を増やせということを主張していつも政府や自治体とケンカしているかというと、そんなことはないわけです。社会全体として防火体制については、安定的な合意があるわけで、そうした合意が出来ていることが社会全体の火災に対する「安心」になっているわけです。

 放射線の場合は、燃焼現象とは違って目に見えないという問題はあります。また安全に関する直感や価値観に大きな差があって、社会的な合意を形成するのは困難だというのも事実です。ですが、「自分の科学的な理解から導いた基準が安全」であり「科学を知らない世論の感情論が安心」だなどという大衆蔑視、世論軽視の姿勢からは、社会全体の安定的な合意形成は不可能だということは言えるでしょう。

 まずは、専門家や政治家、そして電力会社が世論を見下すような姿勢を止めることです。合意形成への道のりは長く困難を極めるでしょうが、とにかく「原子核物理学を理解し、国の経済成長に責任を感じているのは自分たちだけ」という「悲壮な決意」からは何も生まれないことを肝に銘ずるべきでしょう。

プロフィール

冷泉彰彦

(れいぜい あきひこ)ニュージャージー州在住。作家・ジャーナリスト。プリンストン日本語学校高等部主任。1959年東京生まれ。東京大学文学部卒業。コロンビア大学大学院修士(日本語教授法)。福武書店(現ベネッセコーポレーション)勤務を経て93年に渡米。

最新刊『自動運転「戦場」ルポ ウーバー、グーグル、日本勢――クルマの近未来』(朝日新書)が7月13日に発売。近著に『アイビーリーグの入り方 アメリカ大学入試の知られざる実態と名門大学の合格基準』(CCCメディアハウス)など。メールマガジンJMM(村上龍編集長)で「FROM911、USAレポート」(www.jmm.co.jp/)を連載中。週刊メルマガ(有料)「冷泉彰彦のプリンストン通信」配信中。

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