コラム

誤用ではない、清武GMの「コンプライアンス」発言

2011年11月14日(月)10時25分

 GMとしてチーム編成が成功していたとは思いませんし、会見を文部科学省で行ったり、途中で泣いたりという展開は決して格好いいものだとは思いません。週末の間ずっと続いていたコメントの応酬も日本シリーズをバカにしたようで見苦しいことこの上ありません。それはともかくとして、今回、読売巨人軍の清武GMが行った告発については正当性があると思います。

 まず第一印象として「コンプライアンスというのは妙だな」という感想を持った人も多いと思います。渡辺会長側の居丈高な反論にもそうしたニュアンスがあります。確かに日本のカタカナ語である「コンプライアンス」という語感には、現在のところ英語の "regulatory compliance" つまり「規制への従属」という意味が中心になっています。

 つまり、法律や規制など「お上」の決めたルールに従うのがコンプライアンスという感覚です。ですが、この発想では抜け落ちている部分があります。それは、政府の規制に従順でなくてはならないだけでなく、一対一の契約に関しても一旦契約した以上はそれを尊重し、その契約に従順でなくてはならないという考え方です。つまり民事上の契約において、契約を尊重すること、社会的・経済的支配力を使って不公正な契約を結んだり、一旦締結した契約を支配力を使って変更したり取り消したりしてはならないということです。

 日本では欧米の「レギュラトリー・コンプライアンス」を導入して企業の法令遵守を向上させるのは重視されていますが、企業を当事者とした一対一の契約に関しては、依然として前近代的なドロドロしたものが残っています。契約書に違反した形での「裏と表、本音と建前」の使い分けということは、今でも横行しているし、それが広い意味でのコンプライアンス違反であるという認識は定着していません。

 例えば日本式の契約書には、最終の条文として「尚、本契約に定めなき問題が発生したときは、双方信義を尽くして解決するものとする」という「全く意味不明の条項」が入っています。これは、英文契約を作成する際に良く問題になるのですが、「信義を尽くす」という文言のウラには「社会的に強い方が勝ち、弱い方は従え」という前近代的な思想があることは否定できません。

 さて、今回の件に関しては、具体的には岡崎氏へのヘッド就任の内示が「鶴の声」で覆されそうになっているという状況があるわけです。この問題に関しては、契約書の調印まで行っていないかもしれませんが、契約の責任と権限を持つGMから口頭内示があったとして、それを「チャラ」にするというのは、契約の概念からして前近代的だと言えます。

 これに加えて、二つの問題があります。一つは越権行為です。コーチ人事を含むチームの編成権がGMの職責であれば、それに対して「上の上」の存在である渡辺会長が介入したというのは、権限責任の分掌という組織の根幹を破壊するものです。首相が例えば駐米大使であるとか、初等教育局長などの人事に介入しては行政機関はメチャクチャになりますし、防衛大臣が勝手に師団長をクビにするなどということが横行すれば、安全保障もなにもあったものではありません。

 民間企業でも同じで、メガバンクの頭取が支店の窓口の人事に口を出したり、巨大自動車メーカーの社長が工場のラインの担当者が気に入らないと文句を言うというのは完全に御法度です。まして、球団のGMというのは、職業野球選手という統一契約書にサインした「自営業者」との契約を個別の戦力データに基づいて決定するのが「専門的な職務」なのです。コーチ人事も同じことで、そこに、二段階上の、いや球団の「執行権」が全くない渡辺会長が介入してくるなどというのは、組織の権限分掌違反です。

 もう一つは、上場企業ならダメだが、非上場企業なら良いかという問題です。これも、漠然と現在の日本の感覚では、上場企業の場合は世間の目も厳しいし、色々な経営内容の情報開示も必要なので「コンプライアンス」にしても、民事上の契約における対等性にしても求められるが、非上場の場合は「緩くていいのでは」という認識があるかもしれません。

 これもおかしな話です。法令遵守にしても、民事上の契約当事者としての契約に忠実である義務にしても、企業という法人が社会的な責任を果たしてゆかねばならないことには変わりはありません。上場していないから勝手をしてもいいし、今回の件なども「非上場企業という私的な団体の中の内輪もめ」だというのはおかしいのです。単なる「内紛」という解説には、そうした匂いがしますが、上場非上場に関わらず「企業とは公器」という認識を持つべきだと思うのです。

 週明けには、渡辺氏と原監督が「江川ヘッド構想」について相談していたことが明るみに出ました。これに対するメディアの報道姿勢が「清武孤立」ではダメなのです。二段飛ばしのコミュニケーションが横行しているというのは、私的団体の内部の私的な内紛ではなく、公器たる株式会社における「コンプライアンス」上の重大な違反なのです。

 では、どうすれば良かったのでしょうか。別に難しいことはありません。渡辺氏は、どうしても球団のコーチ人事を見直したければ、オーナーを通じてGMとコミュニケーションを図り、そこで合意に達しなければオーナーがGMをクビにすればいいのです。オーナーもGMと同意見で説得に応じなければ、オーナーもクビにするだけのことです。

 要するに自分の手を汚して正当な人事権を順番に行使するのではなく、ネバネバした共同体としての曖昧な「調和の論理」を振りかざして「二段飛ばしの介入」とか「朝令暮改」をやっても許されるだろうという甘えがあるのです。実は、そうしたトップの甘えた行動が、組織の各段階のモラルを低下させ、組織全体の活力を削いでいるということに気づかなくてはなりません。

プロフィール

冷泉彰彦

(れいぜい あきひこ)ニュージャージー州在住。作家・ジャーナリスト。プリンストン日本語学校高等部主任。1959年東京生まれ。東京大学文学部卒業。コロンビア大学大学院修士(日本語教授法)。福武書店(現ベネッセコーポレーション)勤務を経て93年に渡米。

最新刊『自動運転「戦場」ルポ ウーバー、グーグル、日本勢――クルマの近未来』(朝日新書)が7月13日に発売。近著に『アイビーリーグの入り方 アメリカ大学入試の知られざる実態と名門大学の合格基準』(CCCメディアハウス)など。メールマガジンJMM(村上龍編集長)で「FROM911、USAレポート」(www.jmm.co.jp/)を連載中。週刊メルマガ(有料)「冷泉彰彦のプリンストン通信」配信中。

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