コラム

坂本龍馬を「再発見」したアメリカ人学者の情熱とは?

2010年11月29日(月)14時51分

 NHKの大河ドラマ『龍馬伝』が完結しました。アメリカでも衛星放送の「TVジャパン」経由で放映されていたのですが、演出演技共に全く飽きさせない内容だっただけに、毎週日曜の楽しみが無くなって少々寂しい思いがします。ところで、ドラマの中で坂本龍馬は一旦世間から忘れられていたのが、高知の新聞記者が龍馬を知る人物に取材して連載読み物にしたというエピソードが出てきます。では、その後は龍馬は今のように有名だったのかというと、必ずしもそうではないようで、国民的英雄になったのは1963年から65年にかけて刊行された司馬遼太郎氏の小説『龍馬がゆく』以降でしょう。

 この小説も北大路欣也さんの主演で大河ドラマになっていますが、では、司馬氏はそもそも龍馬について関心を寄せていたのかというと、そうでもなく、一説によるとその直前に発表されたアメリカの歴史家マリウス・ジャンセン先生による長編論文『坂本龍馬と明治維新("Sakamoto Ryoma and the Meiji Restoration", 1961)がきっかけだという説もあるのです。ちなみに、ジャンセン先生は私の住むプリンストンのコミュニティでは、2000年の12月に亡くなられてもう10年になる今でも伝説の日本学者として尊敬されており、私は直接面識はないのですが「先生」と呼ばせていただくことをお許しください。

 実際に司馬氏がジャンセン論文を下敷きにしたという証拠はないのですが、ジャンセン論文の成立には「坂本龍馬の生き字引」といわれた平尾道雄氏という土佐の歴史家が協力しており、ジャンセン先生自身が何度も高知を訪れているそうです。平尾氏は日本語版の翻訳も行っていますが、何と言っても土佐山内家の史料編纂を長年担当していた存在です。司馬氏も平尾氏に協力を求めた可能性は濃厚だとすれば、その時期には出たばかりのジャンセン論文のことが司馬氏にも伝わっていたと考えるのが自然でしょう。ジャンセン論文があったから、司馬氏が『龍馬がゆく』を書いたというのは言い過ぎですが、ジャンセン論文の良く整理された構成から来る説得力は、司馬氏の龍馬像にも影響を与えたのはほぼ間違いがないと思います。

 その『坂本龍馬と明治維新』ですが、学術論文とはいうものの読みにくさなど全くない、実にスリリングな読み物です。例えば、龍馬が勝海舟を暗殺しに行って、その場で心服させられるシーンなどは、

"What was there about Katsu's explanation that impressed Sakamoto so deeply?
The details of the conversation cannot be reconstructed, but we can safely
assume that the discovery of Katsu's patriotism and resentment of the
Western demands helped to stay the assassins' swords." (スタンフォード大学出
版局版164ページ)

「勝の説得のどこが坂本にこれほど深い感銘を与えたのであろうか。話のこまかい内容をここに再現することは不可能だが、勝の愛国の熱誠と西洋側の要求に対する憤慨をみて、それが暗殺者たちに剣を抜かせなかったのだということだけは、推測して間違いないだろう。」(平尾、浜田訳、昭和48年新版167ページ)

などという調子で、実にヴィヴィッドに描かれているのです。

 こうした「読ませる」文体に加えて、平尾氏と共に史料を探っていった中で龍馬や中岡慎太郎の直筆の手紙を読み込んで、例えば龍馬と姉乙女との関係を見てゆくなかから、彼等の人物像に迫るといういわばディテールからのアプローチと、「尊皇攘夷のナショナリズムが合理的な開国近代化に転じたのはどうしてか?」という問題意識を持ち続けた大局的な観点がうまく整合しており、ドラマ同様のダイナミズムを感じることができるのです。この点が、司馬氏の龍馬像も、今回の福田靖氏脚本の龍馬像もジャンセン論文がルーツなのかもしれない、そう思わせる理由です。

 この「マクロな視点」についてのジャンセン先生の結論ですが、尊皇攘夷の熱狂が志士たちを独立独歩の英雄気取りにさせる一方で、龍馬にしても薩長にしても商業との親しみから来る経済合理性が冷静で合理的な視点を与えたという解釈です。(これまた今回のNHK版そのものですが)ここには、60年代という冷戦期にあって、明治維新が階級闘争だったという左派史観を何とか論破したいという政治的動機も感じられ、その辺の「思い込みと思い入れ」が強すぎるという批判も可能でしょうが、とにかくその点も含めて、現代日本の「龍馬像」に深く影響を与えているのは間違いないでしょう。

 ジャンセン先生といえば、亡くなった文芸評論家の江藤淳氏が、正にその60年代前半にプリンストン大学に研究生そして講師として在籍していた際に接点がありました。江藤氏が帰国後に書いて話題になった『アメリカと私』というエッセイでも、最初のアパート探しの時点から、江藤夫妻がジャンセン先生夫妻と親しくしていた様子が出てきます。ただ、江藤氏はそのエッセイの中で、ジャンセン先生に関しても「イタリア系」だから「黒人との相性が」うんぬんとか、他の大学関係者や学生に関しても不自然なほど「失礼」なことを書いてしまっています。ここプリンストンの大学コミュニテイでは、そのために後に「大物」になった江藤氏に対して冷ややかな視線が残っていたのは事実のようです。

 この件に関しては、最近復刊になった『アメリカと私』の文庫版で、他ならぬ加藤典洋氏が「滑稽な劇を演じ、ドンキホーテにならざるを得ない」として「読んでいて、よい気持ちがしない。」と厳しく指摘しつつも「いいよ、許す。書きなさい。(改行)筆者の中の誰かが、三十歳の白面の敗戦国の青年(筆者注、1960年代の江藤氏のこと)の、背中をたたくのを、感じる。」と加藤氏らしい入り組んだ述懐を述べておられます。

 私は世代的にも在米経験の長さから言っても、江藤・加藤両氏のそれぞれの態度について、もう少し突っ込んだ評価をいつかはしなくてはいけないと思っています。ですが、そうした「日本、アメリカ、アイデンティティ、敗戦国と戦勝国」といった議論を抜きにして、ジャンセン論文の「龍馬像」は大したものだと思います。それはたぶん、龍馬にのめり込むことによって、アメリカ人でも日本人でもない「人間坂本龍馬」に対してジャンセン先生が惚れ込んでしまったからなのでしょう。歴史研究として時にこうした態度は危険ですが、少なくともこのケースだけは否定できないように思います。

プロフィール

冷泉彰彦

(れいぜい あきひこ)ニュージャージー州在住。作家・ジャーナリスト。プリンストン日本語学校高等部主任。1959年東京生まれ。東京大学文学部卒業。コロンビア大学大学院修士(日本語教授法)。福武書店(現ベネッセコーポレーション)勤務を経て93年に渡米。

最新刊『自動運転「戦場」ルポ ウーバー、グーグル、日本勢――クルマの近未来』(朝日新書)が7月13日に発売。近著に『アイビーリーグの入り方 アメリカ大学入試の知られざる実態と名門大学の合格基準』(CCCメディアハウス)など。メールマガジンJMM(村上龍編集長)で「FROM911、USAレポート」(www.jmm.co.jp/)を連載中。週刊メルマガ(有料)「冷泉彰彦のプリンストン通信」配信中。

あわせて読みたい
ニュース速報

ビジネス

中国への融資終了に具体的措置を、米財務長官がアジア

ビジネス

ベッセント長官、日韓との生産的な貿易協議を歓迎 米

ワールド

アングル:バングラ繊維産業、国内リサイクル能力向上

ワールド

ガザ支援搬入認めるようイスラエル首相に要請=トラン
あわせて読みたい
MAGAZINE
特集:独占取材 カンボジア国際詐欺
特集:独占取材 カンボジア国際詐欺
2025年4月29日号(4/22発売)

タイ・ミャンマーでの大摘発を経て焦点はカンボジアへ。政府と癒着した犯罪の巣窟に日本人の影

メールマガジンのご登録はこちらから。
人気ランキング
  • 1
    日本旅行が世界を魅了する本当の理由は「円安」ではない
  • 2
    中国で「ネズミ人間」が増殖中...その驚きの正体とは? いずれ中国共産党を脅かす可能性も
  • 3
    トランプ政権の悪評が直撃、各国がアメリカへの渡航勧告を強化
  • 4
    健康寿命は延ばせる...認知症「14のリスク要因」とは…
  • 5
    アメリカ鉄鋼産業の復活へ...鍵はトランプ関税ではな…
  • 6
    関税ショックのベトナムすらアメリカ寄りに...南シナ…
  • 7
    ロケット弾直撃で次々に爆発、ロシア軍ヘリ4機が「破…
  • 8
    ロシア武器庫が爆発、巨大な火の玉が吹き上がる...ロ…
  • 9
    ビザ取消1300人超──アメリカで留学生の「粛清」進む
  • 10
    パニック発作の原因の多くは「ガス」だった...「ビタ…
  • 1
    日本旅行が世界を魅了する本当の理由は「円安」ではない
  • 2
    「生はちみつ」と「純粋はちみつ」は何が違うのか?...「偽スーパーフード」に専門家が警鐘
  • 3
    「スケールが違う」天の川にそっくりな銀河、宇宙初期に発見される
  • 4
    【クイズ】「地球の肺」と呼ばれる場所はどこ?
  • 5
    女性職員を毎日「ランチに誘う」...90歳の男性ボラン…
  • 6
    教皇死去を喜ぶトランプ派議員「神の手が悪を打ち負…
  • 7
    『職場の「困った人」をうまく動かす心理術』は必ず…
  • 8
    自宅の天井から「謎の物体」が...「これは何?」と投…
  • 9
    「100歳まで食・酒を楽しもう」肝機能が復活! 脂肪…
  • 10
    トランプ政権はナチスと類似?――「独裁者はまず大学…
  • 1
    【話題の写真】高速列車で前席のカップルが「最悪の行為」に及ぶ...インド人男性の撮影した「衝撃写真」にネット震撼【画像】
  • 2
    健康寿命を伸ばすカギは「人体最大の器官」にあった...糖尿病を予防し、がんと闘う効果にも期待が
  • 3
    【クイズ】世界で最も「レアアースの埋蔵量」が多い国はどこ?
  • 4
    【心が疲れたとき】メンタルが一瞬で “最…
  • 5
    中居正広は何をしたのか? 真相を知るためにできる…
  • 6
    間食はなぜ「ナッツ一択」なのか?...がん・心疾患・抜…
  • 7
    日本旅行が世界を魅了する本当の理由は「円安」では…
  • 8
    自らの醜悪さを晒すだけ...ジブリ風AIイラストに「大…
  • 9
    北朝鮮兵の親たち、息子の「ロシア送り」を阻止する…
  • 10
    【クイズ】世界で最も「半導体の工場」が多い国どこ…
トランプ2.0記事まとめ
日本再発見 シーズン2
CHALLENGING INNOVATOR
Wonderful Story