コラム

アウシュヴィッツ収容所の隣、塀のこちら側のファミリードラマ『関心領域』

2024年05月23日(木)17時40分

そして、その晩の寝室における夫婦の会話に切り替わる。ヘートヴィヒは最初に、ブラハトから電話があったが、ルドルフが外で乾杯していたので、向こうから翌日にかけ直すことを伝える。その後、話題は妻のわがままな要求に変わり、夫婦の平凡な会話になる。

その時点ではブラハトが何者なのか定かではないが、私信の朗読が挿入されることで、ささやかな伏線になっていたことがわかる。それは、全国指導部ボルマンに宛てた私信で、同志ヘスの転属を阻止するよう嘆願していた。送信者はフリッツ・ブラハト、人物についての説明はないが、アウシュヴィッツ収容所を含め、アッパーシレジアを管轄する大管区指導者だ。

あらためてそのブラハトと電話で話したルドルフは、よい知らせではなかったものの、手紙に感謝し、妻に話さないと、と囁く。

このような展開によって、冒頭からの幸せそうな家族のドラマが、見えたとおりのものではなかったことがわかる。おそらくルドルフは、冒頭のハイキングの前にすでに転属を告げられ、それが覆るように親しいブラハトに協力を依頼し、返事をまっていたのだろう。

アウシュヴィッツに執着する妻

ちなみにルドルフは、まだ建設中のアウシュヴィッツ収容所の所長になり、転属までの3年半、そこに全精力を傾けてきた。彼の告白遺録『アウシュヴィッツ収容所』には、転属を告げられたときのことが、以下のように綴られている。

newsweekjp_20240522095117.jpg『アウシュヴィッツ収容所』ルドルフ・ヘス 片岡啓治訳(講談社学術文庫、1999年)


「その一瞬、私は、解任されるのを苦痛にさえ感じた。というのは、私はさまざまの困難や苦痛やたくさんの苦しい任務を通じて、アウシュヴィッツと共に成長してきたからだった。だが、それがすぎると、私はそれから解放されるのを喜んだ」

だから、誕生日を祝われたときも、建設会社の重役と会っていたときも、寝室で妻のわがままを聞いていたときも、転属のことで頭がいっぱいになっていたと想像することができる。

しかし本作で、ある意味でルドルフ以上にアウシュヴィッツに執着しているのが、妻のヘートヴィヒであり、緻密な脚本がそれを際立たせる。

ルドルフが妻に転属を伝えようと思っているタイミングで、彼女の母親が訪ねてきて、滞在する。ヘートヴィヒは母親を連れて、自分で設計から植栽まで手がけ、プールや温室や東屋まで備えた自慢の庭を案内する。

ヘートヴィヒはどんなことがあってもその楽園を手放すつもりはない。だからルドルフは、ひとりで家を離れ、ベルリン北郊のオラニエンブルクにある強制収容所監察局に副監察官として迎えられ、全収容所の所長を束ねることになる。

プロフィール

大場正明

評論家。
1957年、神奈川県生まれ。中央大学法学部卒。「CDジャーナル」、「宝島」、「キネマ旬報」などに寄稿。「週刊朝日」の映画星取表を担当中。著書・編著書は『サバービアの憂鬱——アメリカン・ファミリーの光と影』(東京書籍)、『CineLesson15 アメリカ映画主義』(フィルムアート社)、『90年代アメリカ映画100』(芸術新聞社)など。趣味は登山、温泉・霊場巡り、写真。
ホームページ/ブログは、“crisscross”“楽土慢遊”“Into the Wild 2.0”

あわせて読みたい
ニュース速報

ビジネス

ユーロ圏インフレは当面2%程度、金利は景気次第=ポ

ビジネス

ECB、動向次第で利下げや利上げに踏み切る=オース

ビジネス

ユーロ圏の成長・インフレリスク、依然大きいが均衡=

ビジネス

アングル:日銀、追加利上げへ慎重に時機探る 為替次
あわせて読みたい
MAGAZINE
特集:教養としてのBL入門
特集:教養としてのBL入門
2025年12月23日号(12/16発売)

実写ドラマのヒットで高まるBL(ボーイズラブ)人気。長きにわたるその歴史と深い背景をひもとく

メールマガジンのご登録はこちらから。
人気ランキング
  • 1
    「最低だ」「ひど過ぎる」...マクドナルドが公開したAI生成のクリスマス広告に批判殺到
  • 2
    自国で好き勝手していた「元独裁者」の哀れすぎる末路が発覚...プーチンは保護したのにこの仕打ち
  • 3
    「勇気ある選択」をと、IMFも警告...中国、輸出入ともに拡大する「持続可能な」貿易促進へ
  • 4
    日本がゲームチェンジャーの高出力レーザー兵器を艦…
  • 5
    ゆっくりと傾いて、崩壊は一瞬...高さ35mの「自由の…
  • 6
    おこめ券、なぜここまで評判悪い? 「利益誘導」「ム…
  • 7
    中国の次世代ステルス無人機「CH-7」が初飛行。偵察…
  • 8
    身に覚えのない妊娠? 10代の少女、みるみる膨らむお…
  • 9
    一瞬にして「巨大な橋が消えた」...中国・「完成直後…
  • 10
    9歳の娘が「一晩で別人に」...母娘が送った「地獄の…
  • 1
    日本がゲームチェンジャーの高出力レーザー兵器を艦載、海上での実戦試験へ
  • 2
    人口減少が止まらない中国で、政府が少子化対策の切り札として「あるもの」に課税
  • 3
    「勇気ある選択」をと、IMFも警告...中国、輸出入ともに拡大する「持続可能な」貿易促進へ
  • 4
    デンマーク国防情報局、初めて米国を「安全保障上の…
  • 5
    【衛星画像】南西諸島の日米新軍事拠点 中国の進出…
  • 6
    【実話】学校の管理教育を批判し、生徒のため校則を…
  • 7
    「最低だ」「ひど過ぎる」...マクドナルドが公開した…
  • 8
    ミトコンドリア刷新で細胞が若返る可能性...老化関連…
  • 9
    自国で好き勝手していた「元独裁者」の哀れすぎる末…
  • 10
    【銘柄】資生堂が巨額赤字に転落...その要因と今後の…
  • 1
    日本がゲームチェンジャーの高出力レーザー兵器を艦載、海上での実戦試験へ
  • 2
    人口減少が止まらない中国で、政府が少子化対策の切り札として「あるもの」に課税
  • 3
    高速で回転しながら「地上に落下」...トルコの軍用輸送機「C-130」謎の墜落を捉えた「衝撃映像」が拡散
  • 4
    日本人には「当たり前」? 外国人が富士山で目にした…
  • 5
    【銘柄】オリエンタルランドが急落...日中対立が株価…
  • 6
    「髪形がおかしい...」実写版『モアナ』予告編に批判…
  • 7
    日本の「クマ問題」、ドイツの「問題クマ」比較...だ…
  • 8
    膝が痛くても足腰が弱くても、一生ぐんぐん歩けるよ…
  • 9
    「勇気ある選択」をと、IMFも警告...中国、輸出入と…
  • 10
    インド国産戦闘機に一体何が? ドバイ航空ショーで…
トランプ2.0記事まとめ
Real
CHALLENGING INNOVATOR
Wonderful Story