コラム

19世紀フランスを舞台にした映画『ポトフ 美食家と料理人』:美食の世界への新たな視角

2023年12月15日(金)17時06分

これに対して、食事を科学的に検証する後者では、脳が快楽をどのように経験するのかが明らかにされていく。オルブライトが注目する神経科学者モルテン・クリンゲルバッハによれば、すばらしい食事から得る快感は、すばらしいセックスと同じ脳のパターンを経ている。だが、超加工食品が徐々に快楽システムを変化させ、その結果、食品が快感をもたらす効果を低下させる可能性がある。


「料理を作り食べることで周囲の人々と深くて有意義なかかわりを作るのに近道はないように、どんなものを食べればよいか選ぶのには時間がかかります。それをしないでいると、一種の無快感症(喜びを感じられない症状)が表面化し、人々が食に対して抱いている一種の不安のようなものが見えてくるのです」


料理と愛情の間の微妙なバランス

トラン・アン・ユンが切り拓く料理の世界は、そんな現代の料理の状況を頭に入れておくとより興味深くなる。では彼は、このドラマでなにをどのように省略しているのか。

皇太子が催した晩餐会の料理にうんざりしたドダンは、皇太子をポトフでもてなすことに決める。そんな美食をめぐる対決は盛り上がることだろうが、トラン・アン・ユンはそのことに関心がない。晩餐会は、その前に用意されたメニューの紹介(シェフが長々と読み上げる)が描かれただけで、ドダンと共に招かれた4人の美食仲間がその感想をウージェニーに語る場面に切り替わる。晩餐会は8時間もつづいたという。

トラン・アン・ユンがその代わりに時間を割くのは、ドダンとウージェニーの料理以外の関係だ。ドダンは彼女にずっと求婚しつづけている。このドラマでは、結婚は寝室の共有という表現に置き換えることができる。これまでドダンが夜に彼女の寝室を訪れても、受け入れられるとは限らなかったが、結婚すればそれが変わることが示唆されているからだ。

ドダンが料理人としてのウージェニーだけでなく、寝室の共有を求めるということは、そこに料理にはない価値があることを意味する。だが、トラン・アン・ユンは、ふたりの性的な関係の描写を最小限にとどめる。彼が料理の描写に割く時間を考えれば、それは省略に等しい。

料理の快楽と人間関係の探求:映画の深層を解読する

トラン・アン・ユンは、そんな省略を効果的に使うことで、ドダンのなかで料理と寝室の共有の快楽に対する認識がどのように変化していくのかを掘り下げていく。そして、その変化が見えてきたとき、本作の導入部が深い意味を持つことになる。

導入部では40分ほどの時間をかけて、ドダンとウージェニーが、美食仲間をもてなす午餐会の様子が克明に描かれる。先述した『こころを健康にする食事の科学』でオルブライトは、料理の快楽を「食べものを育てる」、「作る快楽、食べる快楽」、「においと味」、「視覚、聴覚、触覚」、「誰かと一緒に食べる」という小見出しで分けて詳述しているが、冒頭の午餐会はまさにその視覚化といえる。

その午餐会で、肉や魚の見事な大皿を次々に作り上げるウージェニーと、ホストとして料理を手際よく切り分けるドダンは、単に美食仲間をもてなすだけでなく、別の次元で快楽を分かち合っている。ドダンは最後にその喜びを再認識することになる。

トラン・アン・ユンは、美食の歴史ではなく、失われつつある料理の快楽を、五感に訴えるように実に鮮やかに描き出している。

プロフィール

大場正明

評論家。
1957年、神奈川県生まれ。中央大学法学部卒。「CDジャーナル」、「宝島」、「キネマ旬報」などに寄稿。「週刊朝日」の映画星取表を担当中。著書・編著書は『サバービアの憂鬱——アメリカン・ファミリーの光と影』(東京書籍)、『CineLesson15 アメリカ映画主義』(フィルムアート社)、『90年代アメリカ映画100』(芸術新聞社)など。趣味は登山、温泉・霊場巡り、写真。
ホームページ/ブログは、“crisscross”“楽土慢遊”“Into the Wild 2.0”

あわせて読みたい
ニュース速報

ワールド

ウクライナ大統領府長官が辞任、和平交渉を主導 汚職

ビジネス

米株式ファンド、6週ぶり売り越し

ビジネス

独インフレ率、11月は前年比2.6%上昇 2月以来

ワールド

外為・株式先物などの取引が再開、CMEで11時間超
あわせて読みたい
MAGAZINE
特集:ガザの叫びを聞け
特集:ガザの叫びを聞け
2025年12月 2日号(11/26発売)

「天井なき監獄」を生きるパレスチナ自治区ガザの若者たちが世界に向けて発信した10年の記録

メールマガジンのご登録はこちらから。
人気ランキング
  • 1
    7歳の息子に何が? 学校で描いた「自画像」が奇妙すぎた...「心配すべき?」と母親がネットで相談
  • 2
    100年以上宇宙最大の謎だった「ダークマター」の正体を東大教授が解明? 「人類が見るのは初めて」
  • 3
    【クイズ】世界遺産が「最も多い国」はどこ?
  • 4
    【寝耳に水】ヘンリー王子&メーガン妃が「大焦り」…
  • 5
    「攻めの一着すぎ?」 国歌パフォーマンスの「強めコ…
  • 6
    【最先端戦闘機】ミラージュ、F16、グリペン、ラファ…
  • 7
    エプスタイン事件をどうしても隠蔽したいトランプを…
  • 8
    子どもより高齢者を優遇する政府...世代間格差は5倍…
  • 9
    メーガン妃の「お尻」に手を伸ばすヘンリー王子、注…
  • 10
    筋肉の「強さ」は分解から始まる...自重トレーニング…
  • 1
    インド国産戦闘機に一体何が? ドバイ航空ショーで墜落事故、浮き彫りになるインド空軍の課題
  • 2
    膝が痛くても足腰が弱くても、一生ぐんぐん歩けるようになる!筋トレよりもずっと効果的な「たった30秒の体操」〈注目記事〉
  • 3
    マムダニの次は「この男」?...イケメンすぎる「ケネディの孫」の出馬にSNS熱狂、「顔以外も完璧」との声
  • 4
    海外の空港でトイレに入った女性が見た、驚きの「ナ…
  • 5
    ポルノ依存症になるメカニズムが判明! 絶対やって…
  • 6
    【最先端戦闘機】ミラージュ、F16、グリペン、ラファ…
  • 7
    老後資金は「ためる」より「使う」へ──50代からの後…
  • 8
    AIの浸透で「ブルーカラー」の賃金が上がり、「ホワ…
  • 9
    「髪形がおかしい...」実写版『モアナ』予告編に批判…
  • 10
    7歳の息子に何が? 学校で描いた「自画像」が奇妙す…
  • 1
    【クイズ】本州で唯一「クマが生息していない県」はどこ?
  • 2
    東京がニューヨークを上回り「世界最大の経済都市」に...日本からは、もう1都市圏がトップ10入り
  • 3
    一瞬にして「巨大な橋が消えた」...中国・「完成直後」の橋が崩落する瞬間を捉えた「衝撃映像」に広がる疑念
  • 4
    「不気味すぎる...」カップルの写真に映り込んだ「謎…
  • 5
    【写真・動画】世界最大のクモの巣
  • 6
    高速で回転しながら「地上に落下」...トルコの軍用輸…
  • 7
    「999段の階段」を落下...中国・自動車メーカーがPR…
  • 8
    【クイズ】クマ被害が相次ぐが...「熊害」の正しい読…
  • 9
    まるで老人...ロシア初の「AIヒト型ロボット」がお披…
  • 10
    「髪形がおかしい...」実写版『モアナ』予告編に批判…
トランプ2.0記事まとめ
日本再発見 シーズン2
CHALLENGING INNOVATOR
Wonderful Story