コラム

プーチン大統領就任から3ヶ月、現在のロシアへの分岐点となった原子力潜水艦事故があった

2022年04月07日(木)16時22分

クルスクの事故は、プーチンとテレビ局を経営するオリガルヒの対立が表面化する時期に発生した。そのときプーチンは休暇中で、メディアの反応が以下のように綴られている。

「プーチンにとって、クルスクの惨事は広報上、計り知れない損害をもたらした。潜水艦が沈没してから二十四時間のあいだ、ORTとNTVは冷たい海の景色や岸で嘆き悲しむ家族の映像と、プーチンがソチの別荘で水上スキーやバーベキューを楽しむ映像を交互に流した」

事故を知ったベレゾフスキーは、すぐにプーチンに電話したが、連絡がついたのは事故発生後5日目で、「なぜソチにいる? 休暇を返上して潜水艦基地に行くべきだ。あるいは、少なくともモスクワにいないと。きみはこの状況を肌で感じていない。たいへんなイメージダウンになるぞ」と忠告したが、プーチンがモスクワに戻ったのは事故から1週間後の19日だった。そして、テレビがそんなプーチンや政府を厳しく批判する。

「ORTとNTVは、乗組員の母親や未亡人が政府の怠慢を非難するインタビューを流しつづけた。クレムリンは躍起になって放送を中止させようとしたが、この挑発的なふたつのテレビ局は、海軍の混乱、クレムリンの無関心、潜水艦基地での人間の悲劇を、超然として氷のように冷たい態度のプーチンが混乱を収拾しようとしている姿とともに、二十四時間態勢で放送した」

大手テレビ局は、政府の支配下に置かれることに

本作では、乗組員の家族の批判にさらされるのは、海軍大将ペトレンコだが、実際には事故から10日後に、プーチンも北方艦隊の司令部があるセベロモルスクを訪れ、彼の到着を何時間も待っていた家族から厳しい質問を浴びせられた。これに対してプーチンは、以下のようにメディアを激しく非難した。

「彼らは嘘つきだ。テレビ業界には、過去十年にわたってこの国家をだめにしてきた人々がいる。(中略)そしていま、彼らはこの国の信用まで落とし、軍をさらに悪い事態に追い込んでいる......」

この彼らとはもちろんふたりのオリガルヒのことを指している。結局、プーチンの最初の標的になったグシンスキーは、スペインに脱出し、NTVは政府系の天然ガス会社ガスプロムに買収され、ベレゾフスキーも自身が持つORTの株を政府に忠実な人間に売却するように仕向けられ、国外に脱出した。こうして政府に批判的だった大手テレビ局は、政府の支配下に置かれることになった。

冒頭に書いたように本作が2019年頃に公開されていれば、リアルに再現された事故そのものに注目が集まったはずだが、いま公開されることで、そこに現在のロシアにつながる分岐点、あるいはテレビによるプロパガンダのはじまりを見ることができるだろう。

プロフィール

大場正明

評論家。
1957年、神奈川県生まれ。中央大学法学部卒。「CDジャーナル」、「宝島」、「キネマ旬報」などに寄稿。「週刊朝日」の映画星取表を担当中。著書・編著書は『サバービアの憂鬱——アメリカン・ファミリーの光と影』(東京書籍)、『CineLesson15 アメリカ映画主義』(フィルムアート社)、『90年代アメリカ映画100』(芸術新聞社)など。趣味は登山、温泉・霊場巡り、写真。
ホームページ/ブログは、“crisscross”“楽土慢遊”“Into the Wild 2.0”

あわせて読みたい
ニュース速報

ワールド

台湾中銀、政策金利据え置き 成長予想引き上げも関税

ワールド

現代自、米国生産を拡大へ 関税影響で利益率目標引き

ワールド

仏で緊縮財政抗議で大規模スト、80万人参加か 学校

ワールド

中国国防相、「弱肉強食」による分断回避へ世界的な結
あわせて読みたい
MAGAZINE
特集:世界が尊敬する日本の小説36
特集:世界が尊敬する日本の小説36
2025年9月16日/2025年9月23日号(9/ 9発売)

優れた翻訳を味方に人気と評価が急上昇中。21世紀に起きた世界文学の大変化とは

メールマガジンのご登録はこちらから。
人気ランキング
  • 1
    「日本を見習え!」米セブンイレブンが刷新を発表、日本では定番商品「天国のようなアレ」を販売へ
  • 2
    燃え上がる「ロシア最大級の製油所」...ウクライナ軍、夜間に大規模ドローン攻撃 国境から約1300キロ
  • 3
    中国は「アメリカなしでも繁栄できる」と豪語するが...最新経済統計が示す、中国の「虚勢」の実態
  • 4
    1年で1000万人が死亡の可能性...迫る「スーパーバグ…
  • 5
    「二度見した」「小石のよう...」マッチョ俳優ドウェ…
  • 6
    「最悪」「悪夢だ」 飛行機内で眠っていた女性が撮影…
  • 7
    【クイズ】世界で最も「リラックスできる都市」が発…
  • 8
    中国山東省の住民が、「軍のミサイルが謎の物体を撃…
  • 9
    【クイズ】世界で1番「島の数」が多い国はどこ?
  • 10
    中国経済をむしばむ「内巻」現象とは?
  • 1
    「最悪」「悪夢だ」 飛行機内で眠っていた女性が撮影...目覚めた時の「信じがたい光景」に驚きの声
  • 2
    「中野サンプラザ再開発」の計画断念、「考えてみれば当然」の理由...再開発ブーム終焉で起きること
  • 3
    「我々は嘘をつかれている...」UFOらしき物体にミサイルが命中、米政府「機密扱い」の衝撃映像が公開に
  • 4
    【クイズ】次のうち、飲むと「蚊に刺されやすくなる…
  • 5
    科学が解き明かす「長寿の謎」...100歳まで生きる人…
  • 6
    「二度見した」「小石のよう...」マッチョ俳優ドウェ…
  • 7
    【クイズ】世界で唯一「蚊のいない国」はどこ?
  • 8
    【クイズ】世界で1番「島の数」が多い国はどこ?
  • 9
    「なんて無駄」「空飛ぶ宮殿...」パリス・ヒルトン、…
  • 10
    観光客によるヒグマへの餌付けで凶暴化...74歳女性が…
  • 1
    「4針ですかね、縫いました」日本の若者を食い物にする「豪ワーホリのリアル」...アジア出身者を意図的にターゲットに
  • 2
    【クイズ】世界で唯一「蚊のいない国」はどこ?
  • 3
    「まさかの真犯人」にネット爆笑...大家から再三「果物泥棒」と疑われた女性が無実を証明した「証拠映像」が話題に
  • 4
    信じられない...「洗濯物を干しておいて」夫に頼んだ…
  • 5
    「最悪」「悪夢だ」 飛行機内で眠っていた女性が撮影…
  • 6
    「レプトスピラ症」が大規模流行中...ヒトやペットに…
  • 7
    「あなた誰?」保育園から帰ってきた3歳の娘が「別人…
  • 8
    「中野サンプラザ再開発」の計画断念、「考えてみれ…
  • 9
    「我々は嘘をつかれている...」UFOらしき物体にミサ…
  • 10
    プール後の20代女性の素肌に「無数の発疹」...ネット…
トランプ2.0記事まとめ
日本再発見 シーズン2
CHALLENGING INNOVATOR
Wonderful Story