旧東ドイツ人は、その後の時代をどう生きてきたのか 『希望の灯り』
東ドイツ時代について抱く郷愁"オスタルギー"
ここでは、旧東ドイツ人が東ドイツ時代について抱く郷愁"オスタルギー"がどのようなものであるのかを確認しておくべきだろう。フランク・リースナーの『私は東ドイツに生まれた』では、オスタルギーの具体例として「東ドイツ時代の企業や作業集団(コレクティーフ)内での仲間意識」が挙げられ、以下のように説明されている。
「作業集団とは、一般的に同じ場所で働いている人間の集団を指す。(中略)作業集団は、労働時間外でも多くの余暇活動を行った。メンバーをグループとしてまとめ上げ、個人主義が発生しないようにするためである。会社の中でも外でも、グループはグループなのだ。集団は個人よりも管理しやすい。SED(ドイツ社会主義統一党)は党員を通じて作業集団に影響力を発揮することができた。自由時間でも同僚に会っていればプライベートでも助けあうようになり、それだけ秘密がなくなるのだ」
本作のドラマは、そんな作業集団と結びつけてみるとふたつのポイントが見えてくる。ひとつは世代の違いだ。ブルーノや彼と同世代の同僚たちには、よき思い出として作業集団の記憶があり、それがゆるやかな連帯関係としていまも残っている。これに対して、若いクリスティアンには、東ドイツ時代に郷愁を抱くほどの記憶がない。彼は西ドイツ化していく社会に順応することもできなかった。だからタトゥーが物語るように道を踏み外してしまった。そんな彼は、スーパーマーケットではじめて自分の居場所を見出す。
もうひとつは、よき思い出と現実のギャップだ。作業集団に関する引用には、「会社の中でも外でも、グループはグループ」という記述があったが、もうそんな親密な関係を取り戻すことはできない。同僚たちはスーパーマーケットから一歩外に出れば、それぞれに孤独や不安に苛まれながら、個人として生きていくためにもがいている。クリスティアンはやがて、郷愁に支えられた連帯が儚く、脆いものであることを知ることになる。
一見どこにでもある世界に深く心を揺さぶられる理由
本作では、そんなふたつのポイントが絡み合うことによって、原作の短編とは異なる世界が切り拓かれていく。その導入部で新入りのクリスティアンを迎えたルディは、店内を案内する前に「いざ神聖なる空間へ」と語る。それは皮肉なユーモアのように聞こえるが、物語が展開していくに従ってそうは思えなくなる。ステューバー監督が、スーパーマーケットを異空間に変えていくからだ。
本作の冒頭では、閉店後の照明を落とした店内を、フォークリフトが「美しき青きドナウ」に合わせて、踊るように通路を行き交う。この時から、スーパーマーケットは日常であると同時に特別な空間にもなる。
そこに道を踏み外した孤児のような若者クリスティアンがやって来る。原作にはタトゥーのエピソードはないが、映画では出勤した彼が、タトゥーが隠れるように袖や襟を整える場面が何度も挿入される。それは、彼が生まれ変わろうとしていることを示唆している。
そんなクリスティアンは特別な空間で、ブルーノという父親的な存在に出会う。ふたりを結びつけるのはフォークリフトだ。クリスティアンは最初、フォークリフトどころか、手動のハンドリフトですら思うように扱えず、振り回されている。
しかし、閉店後の店内でブルーノに見守られながら、操縦技術を身につけていく。そして、郷愁にとらわれたブルーノからフォークリフトを引き継ぐことが、重要なイニシエーション(通過儀礼)となる。どこにでもある小さな世界を描いているように見える本作に、深く心を揺さぶられるのは、そこに歴史を背景とした神話的な物語が埋め込まれているからだろう。
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