ブータン寺院の家族が、押し寄せる近代化の波の中、手探りで幸せを見出す姿
ちなみに、この映画の共同監督のひとり、ブータンで生まれ育ったバッタライは、主人公親子の中間に位置する世代になる。プレス資料によれば、1985年生まれの彼は、十代になるまで携帯もテレビも見たことがなかったという。そんな彼には、新しいメディアが及ぼす影響がよくわかっているはずであり、この映画では、親子とメディアの関係が意識的に対置されている。
たとえば、家族がそれぞれにテレビを見る場面だ。両親は、ブータンにチベット仏教を伝えた開祖グル・リンポチェを題材にした啓蒙的なアニメを見ている。そのアニメには、「人は死ぬと輪廻転生を繰り返す。物の豊かさなど意味がない。私は家にとどまらず外へ出て徳を積む」といった歌詞の歌が流れる。その隣の部屋では、ゲンボがヨーロッパのサッカーの試合を見ている。サッカーの合宿に参加したテシも、仲間たちとサッカーの試合を見て、ゴールシーンに大喜びする。
この対置は、単に親子の関心や価値観の違いを表しているだけではない。両親が見ているのは、おそらくは自国の文化を再認識するために国営放送が作るような番組であり、それを見ることで彼らの価値観が変わるようなものではない。これに対して、ゲンボやタシは、テレビから新しい情報を吸収することで、価値観や世界観が変わっていく。
さらに、日常における親子の身振りも対置されている。父親は、太鼓を打ち鳴らしながら踊りの修行に励む。その次の場面では、太鼓の響きを残したまま、踊りの動作が、サッカーのトレーニングをするゲンボとタシの動作に置き換えられる。父親がゲンボに踊りの手ほどきをする場面のあとには、少女たちが今どきのダンスの練習をする姿が映し出される。
また、これは明確に対置されているわけではないが、仮面や演じることにも注目すべきだろう。寺院にはたくさんの仮面が保管されていて、父親はアツァラ(道化師)の仮面をつけて、道化を演じてみせる。ゲンボやタシは、ゲームで自分の好きなキャラクターになる。若者たちが、直接的な交流の場とフェイスブックで自分を演じ分けることも、ここに含めることができる。
見えない世界と繋がる父親
そして映画の終盤で、開祖グル・リンポチェにちなむ年に一度のツェチュ祭が催されるとき、こうした対置が別な意味を持つことになる。
この盛大な祭では、チャムという仮面舞踏が行われる。このチャムは、娯楽ではなく、見えない世界を可視化するような厳格な儀礼であり、観客にとっては信仰を深める場となる。父親はそんな祭りで、アツァラの仮面をつけて、重要な進行役を務める。
そこで、親子の世界観の違いがさらに鮮明になる。グル・リンポチェの教えを守り、踊りの修行に励み、仮面の手入れを欠かさない父親は、見えない世界と繋がっている。ゲンボとタシはこの祭りで、誇らしげな父親の姿を遠巻きに眺めるだけで、儀礼に関心を示すこともない。彼らは、見えない世界とは無縁に生きているように見える。
それでもお互いを思いやる家族の姿
近代化の波がブータンを大きく変えつつあることは、ゲンボが父親に連れられて、僧院学校の見学に行く場面にも端的に表れている。僧院学校の教師は、親子にこのように語る。
「今どき僧になりたがる人はいません。入門者がいない。今の子どもは僧院学校より近代的な学校を好みます。自分の将来は自分で考えるようになりました。出家を強制すると彼らの将来を壊しかねません」
父親は、ゲンボが寺院を継ぐことにかなり固執しているが、それでもやはり強制しようとはしない。タシに対しても、女の子らしく振る舞ってほしいと願ってはいるが、前世が男の子で、男の魂を持って現世に生まれてきたと考え、彼女の悲しみに理解を示す。
この映画では、近代化の影響が深刻に見えながらも、家族がそれぞれにお互いを思いやり、手探りで幸せを見出していこうとする姿が印象に残る。
『ゲンボとタシの夢見るブータン』
(C)ÉCLIPSEFILM, SOUND PICTURES, KRO-NCRV
公開:8月18日(土)よりポレポレ東中野のか全国ロードショー
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