イランを生きる男女の深層心理を炙り出すアカデミー受賞作『セールスマン』
物語は、国語教師のエマッドと妻のラナが暮らすアパートが、隣の敷地の強引な工事が原因で倒壊の危機にさらされ、夫婦が避難を余儀なくされるところから始まる。地元の小さな劇団に属している彼らは、団員の友人からアパートを紹介される。そこには前の住人の私物が残されていたが、早く落ち着きたい彼らは即決する。ところが、引っ越しを終え、劇団の舞台「セールスマンの死」が初日を迎えた夜、先に帰宅していたラナが、正体不明の侵入者に襲われ、病院に運ばれるという事件が起こる。
ファルハディ映画の緻密な構成
ファルハディの話術には共通点がある。まずある事件が起こり、そこから波紋が広がり、主人公たちはいつしか後戻りできない状況に陥っている。そんな流れのなかで重要な位置を占めるのは、事件そのものよりも波紋である。『彼女が消えた浜辺』では、エリに対する勝手な思い込みが波紋を広げる要因となり、登場人物たちの首を絞めていく。
新作『セールスマン』でも、勘違いやボタンの掛け違いが、波紋を広げていく。妻のラナは、インターホンが鳴ったときに夫だと思い込み、ドアを開けてからシャワーを浴びていた。訪ねてきた人物も、前の住人が引っ越したことを知らなかった。病院に駆けつけた夫のエマッドは、隣人から前の住人が"ふしだらな商売"を営む女性だったと知らされ、愕然とする。ラナは事件が表沙汰になることを望まず、穏便に済まそうとするが、意に反して噂が広まっていく。
この新作はこれまで以上に緻密な構成が際立つ。映画の冒頭でアパートが倒壊の危機に瀕したとき、エマッドは身体の不自由な隣人を背負って救い出す。それは共同体の親密な関係を物語っているように見える。だが、アパートの紹介と礼金をめぐるやりとりからは、異なる側面が見えてくる。団員の友人は礼金などいらないというが、夫婦は借りを作りたくないという思いから、無理してそれを払う。
この映画に登場する人々はみな、家族以外の他者と距離を置いている。さらにいえば、他者の視線を恐れ、表面的な関係を保っている。ファルハディは、勘違いに起因する事件によって、自分たちを守る壁が崩れ出したとき、人がどんな感情にとらわれ、どんな行動をとるのかを見極めようとする。
ラナは他者の視線の恐ろしさを思い知り、閉じこもってしまう。しかし、心理面でより大きな影響を受けるのは、むしろエマッドの方だ。彼は、侵入者が残していった金に屈辱を覚える。事件のことを隠そうとしても噂は広まり、自分が晒し者にされているような強迫観念にとらわれていく。ついには侵入者の正体を突き止めるために、前の住人の私物を漁り出す。そして、彼の目的はいつしか、同じ屈辱を侵入者にも味あわせることになっている。
ファルハディが盛り込んだ二重の皮肉
ではこれは、西洋文化にも親しむ世俗的な中流という見せかけが剥がれ落ち、イスラム的な男性性という本性が露になる物語なのだろうか。筆者には、ファルハディの作品には二重の皮肉が盛り込まれているように思える。
イラン出身の批評家ダバシは、前掲同書でイランを、「『国家』と呼ばれる人工的で無意味な構造のもとに押し込まれた、せめぎ合う『事実』の融合体」と表現している。それは、本質としては多文化的、多民族的で、宗教、思想など実に多様な要素をはらみながら、単一文化という認識を押し付けられていることを意味している。であるならばこれは、もともと脆弱な中流の基盤が崩れ、支配的な文化に取り込まれていく物語と解釈することができる。
さらにダバシは、イランにつきまとう違和感を以下のように表現している。
「私はこの違和感、他の場所で事が起こっているにもかかわらずふいに宙吊りにされ、本来いるべきではないところに据えられてしまった、という感覚を何としてでも捉え、伝えたいと思っている」
ファルハディもまた、独自の話術を駆使してそんな違和感を表現しようとしているように思えてくる。
《参照/引用文献》
『イラン、背反する民の歴史』 ハミッド・ダバシ 田村美佐子・青柳伸子訳(作品社、2008年)
タイトル:『セールスマン』
公開表記: 6月10日より、Bunkamura ル・シネマほか全国順次ロードショー!
コピーライト:
(C) MEMENTOFILMS PRODUCTION-ASGHAR FARHADI PRODUCTION-ARTE FRANCE CINEMA 2016
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