エチオピア非常事態宣言は民族共存の挫折、日本企業にボディブロー
エチオピアは20世紀後半まで、一人の皇帝が支配する帝国でした。この帝政は1974年のエチオピア革命で崩壊。その後のエチオピアでは、社会主義政権が成立しました。
しかし、中央集権的な社会主義政権に対して、各地に民族ごとの4つの武装組織が成立。4組織は1991年、連合体としてのエチオピア人民革命防衛戦線(EPRDF)を結成。折しも社会主義政権の後ろ盾だったソ連が崩壊したタイミングを見計らい、EPRDFは首都アディスアベバを陥落し、権力を握ったのです。
この経緯から、EPRDF率いる新体制では、特定の民族に対する優遇を避けつつ、国家としての一体性を築くことが重視されました。その結果、世界でも稀な「エスニック連邦主義」が生み出されたのです。
仏作って魂入れず
ただし、どんな制度も、それを運用するのは人間です。民主主義が一歩間違えれば「多数者の専制」になるように、制度の使い方によって本来の理想とかけ離れた結果をもたらすことが珍しくありません。エチオピアの「エスニック連邦主義」でも、時間が経つにつれ、当初の理想とかけ離れた運用が目立つようになったのです。
エチオピアでは1995年憲法のもとで議会選挙が定期的に行われ、4つの武装組織の連合体から4政党の連合体に衣替えしたEPRDFが、議席の大半をEPRDFが握り続けました。社会主義政権との内戦時代にEPRDFを発足させ、初代首相に就任したメレス・ゼナウィの指導のもと、エチオピアは海外からの投資の誘致や農産物の輸出振興を推し進め、2000年代半ばから10パーセント前後の成長率を維持してきました。
ところが、民間企業の起業のための政府系基金が創設されたものの、EPRDF関係者との縁故がなければほぼ採用されないなど、政府とビジネスの癒着も拡大。さらに、経済が順調に成長するほど、メレス首相(当時)の威光は大きくなり、その出身母体ティグライ人が政府や軍で優遇されるようになりました。
ティグライ人は全人口の約6パーセント。それが政治・経済を握る状況に、とりわけ最大人口のオロモ人(34.4パーセント)の間で不満が増幅したことは、不思議でありません。
「エスニック連邦主義」の理念に基づき、あくまで分離独立を主張したオロモ解放戦線(OLF)は、1992年に早くも政権から離脱していましたが、これは後にメレス首相によって「テロ組織」の指定を受け、取り締まりの対象になりました。その後、EPRDFは実質的には「各州の分離独立の権利を表面的には認めつつ、実際にはこれを決して認めない」ことを共通項とする一つの政党として機能し始めました。こうして、世界でも稀な「エスニック連邦主義」は「絵に描いた餅」になったのです。
多数派の抗議
政治・経済を握る少数派に対する抗議は、メレス氏が急逝した2012年頃から急速に広がりをみせ始めました。メレス政権で副首相・外相を務め、繰り上がりで首相となったハイレメリアム氏は、ティグライ人よりさらに人口の少ないウォライタ人(全体の2.3パーセント)。そのため、実質的に政府を握るティグライ人をハイレメリアム首相も制御しきれず、その一方で特にオロモ人からの抗議が噴出していったのです。
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