なぜロシアは今も「苦難のロシア」であり続けているのか
モンゴル支配時代の半ば、キーウの東方のモスクワで「モスクワ大公国」が起きる。当初はモスクワ周辺を治める小さな都市国家だったのが、モンゴルへの税金を集める役を受託。この金を横領して強大となる。モスクワ大公国は、早い段階で君主制の政体を持っていた。
1480年、同国のイワン3世は、自らツァーと名乗る。ロシア語でツァーリ、ラテン語でカエサル。つまり自分は、1453年にオスマン帝国に滅ぼされた東ローマ帝国=ビザンチン皇帝の後継者だ、と称したのだ。イワン3世は、ビザンチンの最後の皇帝の姪、ソフィヤを自分の妻とし、ビザンチン帝国の紋章である双頭の鷲までわが物にして「第3のローマ」を名乗ることで、モンゴルに完全な独立を宣言したのである。彼の孫のイワン4世(雷帝)は1552年、モンゴル勢力の拠点カザンを制圧している。
しかしモンゴルから離れたからといって、ロシアは西欧諸国のように近代文明への道を進むことはなかった。むしろ、まるで今のウラジーミル・プーチン大統領のように、近代化への道を自ら「殺した」のである。
モンゴル支配を逃れて共和政の下で繁栄していたノブゴロドは、新興ロシアの邪魔となっていた。1570年、イワン雷帝はノブゴロドに攻め寄せ、民主制の核となっていた商人貴族・インテリ層を実に3000人、剣で斬り、やりで突いて皆殺しにした。
街を流れるボルホフ川は、彼らの血で赤く染まったという。今のウクライナ侵略とまるで同じ。これは、ロシア人特有の残虐さというより、支配拡大をもくろむ人間は誰でも同じようなことをするのである。
いずれにしてもロシアは、武力による拡張と専制支配の道を選び取った。それは、現在へと続いていく。
ノブゴロドを抑え付けたイワン雷帝は1577年、ウラル山脈の向こうのシベリア征服を目指し、コサックの頭目イェルマークを送り出す。ビーフストロガノフを考案した豪商ストロガノフ家の資金を得ての企てだった。ロシア版コロンブスとでも言おうか。
スペインは、約800年間もイベリア半島を支配したイスラム勢力を駆逐した勢いに乗り、世界の商圏征服に乗り出したが、海のないモスクワ大公国はモンゴル勢力を駆逐した勢いで、シベリアへ乗り出した。
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