コラム

UAEメディアが今になってイスラエルとの国交正常化を礼賛し始めた理由

2020年09月08日(火)06時40分

ところが、半月たってUAEの新聞には「和平合意」や「平和条約」という言葉があふれている。UAEはイスラエルとの単独和平について、アラブ世界から強い反発が出ないかどうか様子を見て、大丈夫と判断したのだろう。

合意発表の後、パレスチナ自治区の各地では合意反対のデモがあり、自治政府はUAEからの大使召還を決めた。しかし、パレスチナの怒りや反発がアラブ世界に広がらなかったことで、UAEは「平和条約」と公言するようになっている。

イスラエルメディアには政府筋の情報として、ワシントンで調印される国交正常化合意は1979年のエジプトや1994年のヨルダンと同じく「平和条約」の調印となるという観測記事も出ている。もし事実ならば、アラブ世界で3カ国目となる。UAEも国内、アラブ世界向けに「平和条約」を既成事実化しようとしているのかもしれない。

今回の合意で最大の敗者はパレスチナ自治政府だといわれるが、パレスチナはこの間に2度、敗れたといってもいいだろう。

41年前のエジプト・イスラエル国交正常化は「冷たい平和」

私は例年、夏と秋は中東に滞在しているのだが、今年は新型コロナの影響で中東に行くことはできないため、このニュースを日本から見ている。だがメディアが政府によって規制されている中東では、新聞、テレビの報道を見ただけでは、国民の反応は分からない。

41年前のエジプトの平和条約の時、私は大学生としてカイロに留学していたので強い印象が残っている。連日、新聞では「平和条約」の見出しが踊り、カイロ中心部のタハリール広場には当時のサダト大統領のことを「平和の英雄」とたたえる巨大な肖像画や横断幕が並んだ。

サダト大統領はイスラエルの首相とともに、ノーベル平和賞を受賞した。しかし、人々の間ではイスラエルとの平和条約の評判は散々だった。

エジプト人の家に招かれると、「イスラエルは信用できない」「これは間違った決断だ」などと和平に対する批判とともに、それまで4度の中東戦争で戦ったり、負傷したりした経験を聞かされた。

エジプトはシナイ半島でイスラエルと接し、それまで中東戦争を担ってきた国だった。1973年の第4次中東戦争は、和平のわずか6年前である。平和条約を締結したことで、エジプトはアラブ連盟から除名され、すべての国から国交断絶された。

当時のエジプト人にとってはもちろん、アラブ人一般にとっても、イスラエルとの和平といわれても、遠い世界のことだったのだろう。

1年のカイロ留学を終えて1980年に帰国し、81年から新聞記者として働き始めたが、その年、サダト大統領はイスラム過激派に暗殺された。サダト暗殺は過激派によるテロではあるが、その凶行の背景に、国民の間に広がった反発があり、一部の若者が歪んだ正義感を暴発させる空気が醸成されていたのだろうと考えた。

私はその後、新聞社の特派員としてエジプトに4回、赴任することになったが、エジプトとイスラエルの関係は「冷たい平和」と言われ、正常な国交には程遠い関係だった。エジプト人の作家やジャーナリスト、俳優、ダンサーがイスラエルに招かれて行くだけで、エジプト社会から強い批判を受ける。戦争を経験した国が和平を結ぶのは政府間の決断であるが、両国民が和平を実現できるかどうかは別問題である。

【関連記事】イスラエル・UAE国交正常化が「究極のディール」の成果にしては貧弱な訳

プロフィール

川上泰徳

中東ジャーナリスト。フリーランスとして中東を拠点に活動。1956年生まれ。元朝日新聞記者。大阪外国語大学アラビア語科卒。特派員としてカイロ、エルサレム、バグダッドに駐在。中東報道でボーン・上田記念国際記者賞受賞。著書に『中東の現場を歩く』(合同出版)、『イラク零年』(朝日新聞)、『イスラムを生きる人びと』(岩波書店)、共著『ジャーナリストはなぜ「戦場」へ行くのか』(集英社新書)、『「イスラム国」はテロの元凶ではない』(集英社新書)。最新刊は『シャティーラの記憶――パレスチナ難民キャンプの70年』
ツイッターは @kawakami_yasu

今、あなたにオススメ
ニュース速報

ビジネス

豊田織機の非公開化報道、トヨタ「一部出資含め様々な

ビジネス

中国への融資終了に具体的措置を、米財務長官がアジア

ビジネス

ベッセント長官、日韓との生産的な貿易協議を歓迎 米

ワールド

アングル:バングラ繊維産業、国内リサイクル能力向上
今、あなたにオススメ
MAGAZINE
特集:独占取材 カンボジア国際詐欺
特集:独占取材 カンボジア国際詐欺
2025年4月29日号(4/22発売)

タイ・ミャンマーでの大摘発を経て焦点はカンボジアへ。政府と癒着した犯罪の巣窟に日本人の影

メールマガジンのご登録はこちらから。
人気ランキング
  • 1
    日本旅行が世界を魅了する本当の理由は「円安」ではない
  • 2
    中国で「ネズミ人間」が増殖中...その驚きの正体とは? いずれ中国共産党を脅かす可能性も
  • 3
    トランプ政権の悪評が直撃、各国がアメリカへの渡航勧告を強化
  • 4
    健康寿命は延ばせる...認知症「14のリスク要因」とは…
  • 5
    アメリカ鉄鋼産業の復活へ...鍵はトランプ関税ではな…
  • 6
    関税ショックのベトナムすらアメリカ寄りに...南シナ…
  • 7
    ロケット弾直撃で次々に爆発、ロシア軍ヘリ4機が「破…
  • 8
    ロシア武器庫が爆発、巨大な火の玉が吹き上がる...ロ…
  • 9
    ビザ取消1300人超──アメリカで留学生の「粛清」進む
  • 10
    パニック発作の原因の多くは「ガス」だった...「ビタ…
  • 1
    日本旅行が世界を魅了する本当の理由は「円安」ではない
  • 2
    「生はちみつ」と「純粋はちみつ」は何が違うのか?...「偽スーパーフード」に専門家が警鐘
  • 3
    「スケールが違う」天の川にそっくりな銀河、宇宙初期に発見される
  • 4
    【クイズ】「地球の肺」と呼ばれる場所はどこ?
  • 5
    女性職員を毎日「ランチに誘う」...90歳の男性ボラン…
  • 6
    教皇死去を喜ぶトランプ派議員「神の手が悪を打ち負…
  • 7
    『職場の「困った人」をうまく動かす心理術』は必ず…
  • 8
    自宅の天井から「謎の物体」が...「これは何?」と投…
  • 9
    「100歳まで食・酒を楽しもう」肝機能が復活! 脂肪…
  • 10
    トランプ政権はナチスと類似?――「独裁者はまず大学…
  • 1
    【話題の写真】高速列車で前席のカップルが「最悪の行為」に及ぶ...インド人男性の撮影した「衝撃写真」にネット震撼【画像】
  • 2
    健康寿命を伸ばすカギは「人体最大の器官」にあった...糖尿病を予防し、がんと闘う効果にも期待が
  • 3
    【クイズ】世界で最も「レアアースの埋蔵量」が多い国はどこ?
  • 4
    【心が疲れたとき】メンタルが一瞬で “最…
  • 5
    中居正広は何をしたのか? 真相を知るためにできる…
  • 6
    間食はなぜ「ナッツ一択」なのか?...がん・心疾患・抜…
  • 7
    日本旅行が世界を魅了する本当の理由は「円安」では…
  • 8
    自らの醜悪さを晒すだけ...ジブリ風AIイラストに「大…
  • 9
    北朝鮮兵の親たち、息子の「ロシア送り」を阻止する…
  • 10
    【クイズ】世界で最も「半導体の工場」が多い国どこ…
トランプ2.0記事まとめ
日本再発見 シーズン2
CHALLENGING INNOVATOR
Wonderful Story