コラム

「イスラム国」を支える影の存在

2015年12月05日(土)15時10分

 このような標的を決めて仕留めるようなテロは、情報収集、準備、実施はすべてプロの仕業である。国連事務所の中にも、シーア派モスクの中にも協力者を置き、標的の行動を監視して綿密なテロ実施計画を立てて初めて可能となる。当時は、それぞれアルカイダが関わっていると疑われた。確かに大規模で、世界を驚かせるような爆弾テロは、アルカイダを想起させる。

 しかし、テロを行っているのがアルカイダだと考えると、大きな謎が生まれる。フセイン体制下ではイラクに浸透することができなかったアルカイダが、2003年4月の体制崩壊からわずか4か月しかたっていないのに、土地勘がないにもかかわらず、大規模なテロの情報収集や準備、仕掛けができるはずがないからである。

 そのようなテロを実施できるのは、フセイン体制を支えていた「ムハーバラート(総合情報部)」と呼ばれる情報機関しか考えられなかった。ムハーバラートとは対外工作と国内治安維持の両方を担う治安情報機関・秘密警察である。周辺国から情報機関が浸透してくるのを防ぎ、逆に周辺国にはスパイを送って情報を収集し、時には暗殺やテロといった破壊工作を仕掛け、国内では反体制組織を監視し、軍や部族の不穏な動きに目を光らせる。

体制を支えた情報機関

 フセイン大統領は軍人出身ではなく、アラブ社会主義を掲げたバース党の情報部門の責任者から政敵を排除して権力を握った人物であり、軍を信用せず、体制を支えていたのはムハーバラートだった。米国はイラク戦争後、ムハーバラートを含むすべての治安情報機関を排除し、職員を公職から追放した。その結果、フセイン体制の治安を維持していた治安情報機関が、米占領体制と、その後のシーア派主導体制の治安をかく乱する側に回ったのである。

 ムハーバラートは占領米軍を相手に軍事作戦を行うような軍人的な発想ではなく、テロと破壊活動によって占領体制をかく乱する手法をとる。私は元ムハーバラートの職員で、キューバのイラク大使館での勤務経験がある「アブバラ」というコード名の人物にインタビューしたことがある。その人物は、フセイン体制の崩壊後、スンニ派地域の故郷に戻り、地元の警官幹部として働いていた。ムハーバラートの職員は表向きのIDや職務を持ち、家族でさえ、ムハーバラートで働いていることを知らないので、戦後、故郷の警察で職を得ることに問題はなかった。

 アブバラが戻った故郷の州に駐留した米軍司令官がヒスパニックだったことから、キューバ勤務時代に修得したスペイン語を使って、地元の州知事の通訳をするようになった。さらに当時、占領米軍の下で、米国際開発局(USAID)からイラク復興事業を請け負っている非政府組織 「リサーチ・ トライアングル国際研究所」(RTI)に協力するコンサルタントとしても州議会議員の選出のために働いていた。

 アブバラは、イラク警察とRTIコントラクターの2枚のIDカードを見せながら、「私の古い人生は終わり、新しい人生が始まった。どちらも国と社会の安定のために裏方として働くのは同じだ」と語った。旧体制では独裁制のために働いていた治安情報機関の人間が、戦後は米軍のもとで、イラクの民主化のために働くというのは、あまりに都合が良いようにも思えるが、どのような体制の下でも体制維持のために働くムハーバラートのテクノクラートとしての特性を示している。

プロフィール

川上泰徳

中東ジャーナリスト。フリーランスとして中東を拠点に活動。1956年生まれ。元朝日新聞記者。大阪外国語大学アラビア語科卒。特派員としてカイロ、エルサレム、バグダッドに駐在。中東報道でボーン・上田記念国際記者賞受賞。著書に『中東の現場を歩く』(合同出版)、『イラク零年』(朝日新聞)、『イスラムを生きる人びと』(岩波書店)、共著『ジャーナリストはなぜ「戦場」へ行くのか』(集英社新書)、『「イスラム国」はテロの元凶ではない』(集英社新書)。最新刊は『シャティーラの記憶――パレスチナ難民キャンプの70年』
ツイッターは @kawakami_yasu

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