維新の躍進とリベラルの焦りが日本に韓国型の分断を生む?
そしてそれは韓国も例外ではない。よく知られている様に、民主化後の韓国では朝鮮半島の南東端に位置する慶尚道の人々が保守的な政党を支持し、逆に南西端に位置する全羅道の人々が進歩的な政党を支持する現象が続いている。とはいえ、これは奇妙な現象でもある。何故なら、政治や経済、そして様々な社会的な出来事において、ソウル首都圏が圧倒的な比重を持つ韓国においては、慶尚道も全羅道も所詮は一つの「地方」にしか過ぎず、置かれている状況が大きく異なっている訳ではないからだ。日本に例えるなら、相対的に中立的な首都圏の人々を挟んで、東北と九州の人々が異なるイデオロギーを以て対峙するようなものである。例えば、発展するソウル首都圏に対して、そこから劣後しつつある地方に住む人々が富の配分を求めて対峙するならわかる。しかしながら、この韓国の状況においては、巨大な首都圏を放置したまま、同じ「地方」である二つの地域が、激しく対峙するに至っている。そして加えてそこには憎悪にも似た強い敵対感情すら存在している。
この様な韓国の状況は、時に日本では、遠く古代の新羅と百済の対立からつながるものであるかように理解されることがある。しかしそれは例えば、維新の会の大阪における隆盛を、大阪夏の陣の経験から説明するようなものであり、学術的な根拠のあるものということは出来ない。何故なら、1948年に独立した直後の韓国では、保守的な慶尚道の人々が進歩的な全羅道の人々に対峙する、というような状況は存在さえしていなかったからだ。
「民主化運動の拠点」に何が
遡れば以下のようになる。日本統治期の朝鮮半島の日本内地に対する最大の移出産品は米であり、朝鮮半島の経済を支えていた。朝鮮半島最大の湖南平野を持つ全羅道はこの米生産の最大の拠点であり、だからこそ、この地域には米の生産により栄えた大地主も数多く存在した。そこには、今日、「親日派」と韓国において呼ばれることになる日本統治への協力者すら数多く存在した。
だからこそ、独立直後の韓国において、この地域は多くの保守的な政治家を生み出し、そのある部分は当時の李承晩政権を支えることになった。他方、同じ李承晩政権に対する抵抗運動で大きな役割を果たしたのは、慶尚道地域の人々であった。李承晩政権を倒した1960年の民主化運動で先鞭を切ったのは大邱の学生運動であり、また馬山における民主化を求める動きだった。つまり甞かつては慶尚道こそが「民主化運動の拠点」であったのである。
一言で言えば、1960年代頃までの韓国においては、現在我々の目の前にあるような、慶尚道の人々と全羅道の人々が異なるイデオロギーを以て対立する状況は存在しなかった。この様な状況が生まれるきっかけとなったのは、1961年の軍事クーデタ以降、韓国において朴正熙、全斗煥と続く慶尚道出身の大統領を戴く政権が成立し、その人脈を辿って多くの慶尚道出身の人が、政界や財界の要職に就いたことであり、またこの政権が自らの出身地域に、同時期に始まった発展の成果を集中的にばらまいた、からである。
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