「日本学術会議」任命拒否騒動に見る国家と研究者の適切な距離
菅首相の任命拒否は制度的に正当か否かが問われているが、問題はそれだけではない Carl Court/REUTERS
<今の学術会議は「研究者の代表」というより「研究者の貴族院」であり、大多数の研究者とも無縁の存在になってしまっている。国家と研究者の関係を考える時、学術会議の本来のあり方も問い直すされるべき時だろう>
日本学術会議が推薦した6名の任命が、菅新内閣によって拒否された。インターネット上では多くの研究者がこれを政府による「学問の自由」への侵害である、として反発する声を挙げ、新聞各紙もこの問題を大きく取り上げるに至っている。
しかしながらこの問題に対してインターネットやメディア上で行われている議論は、お世辞にも整理されたものだとは言えない。
この問題の本来の焦点は、内閣による任命拒否を巡る手続き的な正当性にある。日本学術会議法では、この点について「会員は、第十七条の規定による推薦に基づいて、内閣総理大臣が任命する」ものとしており、この内閣総理大臣の「任命」に纏わる権限の範囲について、様々な議論が巻き起こっている。
既に報じられている様に内閣法制局がこれを内閣総理大臣が推薦を拒否する権限を持つものと解釈する一方、この「任命」は──例えば天皇が内閣総理大臣を国会の「指名」に基づき「任命」するように──飽くまで形式的なものに過ぎず、総理大臣が自らの意志によって任命を拒否する事を予定するものでない、という意見も出るに至っている。また、任命拒否に際して、その理由を明らかにしない事の不適切性を問う声もある。つまり首相は自らの決定に伴う理由を明らかにする政治的責任がある、という意見である。
これらの点については、法律学の門外漢である筆者の手に余るものであり、詳細は専門家に任せる事としたい。寧ろ、ここで注目したいのは、これらの本来の論点と併せて指摘されている様々な論点についてである。
問題の本質からずれた議論
例えば、今回の任命拒否ついて、彼らの研究者としての業績を挙げ、「このような立派な研究者が任命されないのはおかしい」とする声がある。しかし、そもそも日本学術会議の委員は、大学の教員人事や各種学術賞の選考過程に置けるような、「研究業績」を唯一絶対の基準にして選ばれている訳ではない。そもそも各人の研究業績や「学識」の高さを、各々の専門の範囲を超えて判断する事は不可能に近い。彼らに期待されているのは、各々の学問分野を代表して意見を述べる事であり、個々人の学識の高さに依存する特殊で固有の意見を述べる事ではない。そして、それこそがこの組織が、これまで「研究者の国会」とも呼ばれてきた理由である。それは国会議員が「国民の代表」である事を求められているのと同じである。
また、今回の任命拒否に関わる議論を、任命拒否された人々の政治的、或いはイデオロギー的傾向と絡めて議論する人達もいる。しかし、この様な方向性の議論もまた同様の問題を持っている。今回の議論においての本来の論点は、総理大臣による「任命」拒否が制度的に許されるか否かであり、この場合において任命拒否された人々がどの様な政治的、或いはイデオロギー的傾向を持っていたかは、何の重要性も持たない筈である。これらの研究水準の高さや政治性、イデオロギー性等、個々の研究者固有の属性を以て、この議論を行う事は、逆にこの属性を理由に異なる人々を排除する可能性を開くものであり、寧ろ議論に混乱を招く事になる。
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