弱者を弱者に甘んじさせないために
先週末の2日間は地元京都では「地蔵盆」でした。京都の町のあちこちに小さな祠があるのに気付かれた方も多いはず。寺院などに祀られているお地蔵様ではなく、こうした町内にあるお地蔵様を毎年この時期にお祭りするのですが、この日の主役は実は子供たち。近世の頃からのコミュニティ内で支え合う共助が、現在では地域の子どもたちの健やかな成長を願う行事として残っています。
我が町内会でも娘たちが産まれた時に名前入りの提灯を作ってくれまして、こうして地域の子どもたちの名前が書かれた提灯が毎年「地蔵盆」の会場を彩ります。お地蔵様にお坊さんがお経をあげるのが本来のメインイベントのはずですが、そのお地蔵様の前で子供たちはお菓子やおもちゃをいただいたり、灯篭にお絵かきをしたり、流しそうめんをしたりとイベントが盛り沢山。清掃から始まる準備も含め、地域の皆さんの尽力に頭の下がる思いですが、町内の老若男女が2日間の間に三々五々つどいますので、あらためて地域の繋がりを意識しますし、子供たちは地域でケアしていくという姿勢も強く感じるものです。
「地蔵盆」の時期だけに留まらず、地元コミュニティでは普段から我が家の娘たちをとても大切にしてくれまして、普段から「◯◯ちゃん、△△ちゃん」と気軽に声をかけ、地域の皆さんがさりげなく気に留めてくれています。子ども、老人、シングルペアレント、障がい者など、サポートの必要な人たちを共同体で受け入れ、支えていくのが当たり前との共助の意識が他と比べると格段に浸透しているとの印象を受ける地域でもあります。ワタクシが安心して米国の公文書館に出掛けたり、国内の地方講演に泊りがけで行けるのも家族の協力と理解があるのはもちろんなのですが、地域のサポートにも負う部分も非常に大きいのです。
弱肉強食の最たる相場取引を長年のキャリアとしてきたワタクシが障がい者を始め弱者支援の話を取り上げると違和感を覚える方が多いようですが、過酷な世界に身を置いてきたからこそ配慮すべき部分(怠惰な人間を甘やかすことではありません)とそうでない部分がより明確にわかるということがあります。地域社会で暮らす中で感じるようになったこともありますし、そもそも社会的な弱者が救われなければ、その他も救われないとの発想が私の中にあります。
自力でできるところまでは最大限に努力する自助、「地蔵盆」に象徴されるような地域で支える共助、そこから拡大して行政など公的に支える公助。自助だけでは限界があり、公助ではどうしても漏れが出てきてしまう――自助と公助のギャップを埋めるべく、その中間で柔軟に対応できるのが共助となるわけですが、この自助・共助・公助の発想はどれも重要で、経済の分野と切っても切れない話でもあります。
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