コラム

イラクのフランケンシュタイン

2014年05月24日(土)11時37分

 4月30日に実施された第三回イラク議会選挙は、まだ完全に確定してはいないものの、与党「法治国家連合」が第一党の地位を確保することが明らかになった。同じシーア派勢力の国民同盟やサドル潮流を大きく引き離して、両者がタッグを組んでも第一党に及ばないだろう。三選は許せない、と批判されてきたマーリキー現首相だが、この勢いに乗って次期政権を担う意欲は満々である。

 2005年から10年以上同じ首相とはいかがなものか、イラク戦争で民主化したというわりには長期独裁の再現じゃないか、と白けた声も強く、投票率は前回とほぼ同じ、六割程度である。最初に選挙が行われた2005年の八割と比べると、激減だ。

 ところで、選挙に白けたイラク人でも、選挙前日に流れてきた次のニュースには、心躍らされたらしい。「イラク人作家、アフマド・サアダーウィの小説『バグダードのフランケンシュタイン』が、今年度のアラビア語本屋大賞を受賞した」。

 アラビア語本屋大賞は、アラビア語で書かれたフィクション小説のなかで最優秀作品に与えられる国際的な賞で、最終審査に残ったエジプト、シリア、モロッコの作家計六人のなかから、サアダーウィが選ばれた。よほどうれしかったのだろう、友人のイラク人は本をまるまる一冊、データにしてメール添付で送ってきた。

 「エジプト人が書き、レバノン人が出版し、イラク人が読む」とは、昔からよく伝わる云いだが、イラク人が読書好きだ、ということをよく表している。首都バグダードの下町にムタナッビ通りという書店街があるが、そこに通い詰めるのが教養ある人の証みたいなものだった。今年4月、ムタナッビ通りの名物書店主が高齢で亡くなったときも、内外のイラク人の間でその死を痛むツイッターが行き来した(古本に囲まれて浮浪者と間違えられるような姿は、昔から名物だった)。文学賞を取ったり書店主が亡くなることのほうが、イラクの知識人にとっては、決まりきった選挙結果より関心が高いのかもしれない。

受賞作は、タイトルからわかるように、「イラク版フランケンシュタイン」を作る空想小説だ。だが、その舞台が鮮烈である。イラク戦争以降、自爆テロの結果であれ米軍やイラク国軍の掃討作戦であれ、国内に吹き荒れた暴力の応酬のなかで、多くのイラク人が死亡した。そのバラバラになった死体のパーツをかき集めて作られたのが、名無しのフランケンシュタインなのである。

 フランケンシュタインに精神が宿ると、彼は元の体を殺した相手に対して、報復を始める。政府は彼を「犯罪者X」と呼んで、追いつめようとする...。当時のイラク社会の、暴力が浸透し殺伐とした雰囲気をよく表した小説だ。

 作者のサアダーウィは1973年、バグダードに生まれた。小学校にあがった頃からずっとフセイン政権のもとで、独裁と情報統制と戦争と経済制裁に苦しまされてきた世代である。フセイン政権下でいい思いをした上の世代とも、イラク戦争後の「解放」を喜び、無邪気に下克上を目指した若者の世代とも違う。過去30年間にイラクを襲った悲劇を、体験してきた目撃者だ。選挙で野心をむき出しにする政治家たちが、なかなかその声を掬えない世代ともいえるかもしれない。

 それでも、好きに小説を書き、好きにそれらを読むことのできる時代に生きていられることは、すべてのイラク人にとって心安まることに違いない。イラク人は13世紀にモンゴルの来襲によってアッバース朝が倒れたことを、こう嘆く。「襲来によって殺された人々の血で、チグリス河が真っ赤に染まった。それからモンゴルの統治者が河に投げ捨てた本のインクで、真っ青に染まった」。それだけ、文化的に蹂躙されることを、イラク人は嫌う。

 今のイラクでは、シーア派政党が与党連合を固め、万年野党と化したスンナ派政治家の不満が渦巻き、宗派に偏った政治運営が続く。かつて米政府が喧伝した、民主化のかけ声などどこかに消えてしまったかのようだ。

 それでも「イラク戦争後の内戦状態よりはましだ」と、イラク人たちは考えているのかもしれない。二度とフランケンシュタインが登場するよりは、と。

プロフィール

酒井啓子

千葉大学法政経学部教授。専門はイラク政治史、現代中東政治。1959年生まれ。東京大学教養学部教養学科卒。英ダーラム大学(中東イスラーム研究センター)修士。アジア経済研究所、東京外国語大学を経て、現職。著書に『イラクとアメリカ』『イラク戦争と占領』『<中東>の考え方』『中東政治学』『中東から世界が見える』など。最新刊は『移ろう中東、変わる日本 2012-2015』。

今、あなたにオススメ
ニュース速報

ワールド

イスラエル首相らに逮捕状、ICC ガザで戦争犯罪容

ビジネス

米中古住宅販売、10月は3.4%増の396万戸 

ビジネス

貿易分断化、世界経済の生産に「相当な」損失=ECB

ビジネス

米新規失業保険申請は6000件減の21.3万件、4
MAGAZINE
特集:超解説 トランプ2.0
特集:超解説 トランプ2.0
2024年11月26日号(11/19発売)

電光石火の閣僚人事で世界に先制パンチ。第2次トランプ政権で次に起きること

メールマガジンのご登録はこちらから。
人気ランキング
  • 1
    日本人はホームレスをどう見ているのか? ルポに対する中国人と日本人の反応が違う
  • 2
    Netflix「打ち切り病」の闇...効率が命、ファンの熱が抜け落ちたサービスの行く末は?
  • 3
    「1年後の体力がまったく変わる」日常生活を自然に筋トレに変える7つのヒント
  • 4
    【ヨルダン王室】生後3カ月のイマン王女、早くもサッ…
  • 5
    NewJeans生みの親ミン・ヒジン、インスタフォローをす…
  • 6
    元幼稚園教諭の女性兵士がロシアの巡航ミサイル「Kh-…
  • 7
    ウクライナ軍、ロシア領内の兵器庫攻撃に「ATACMSを…
  • 8
    「会見拒否」で自滅する松本人志を吉本興業が「切り…
  • 9
    北朝鮮兵が「下品なビデオ」を見ている...ロシア軍参…
  • 10
    若者を追い込む少子化社会、日本・韓国で強まる閉塞感
  • 1
    朝食で老化が早まる可能性...研究者が「超加工食品」に警鐘【最新研究】
  • 2
    自分は「純粋な韓国人」と信じていた女性が、DNA検査を受けたら...衝撃的な結果に「謎が解けた」
  • 3
    「会見拒否」で自滅する松本人志を吉本興業が「切り捨てる」しかない理由
  • 4
    北朝鮮兵が「下品なビデオ」を見ている...ロシア軍参…
  • 5
    朝鮮戦争に従軍のアメリカ人が写した「75年前の韓国…
  • 6
    アインシュタイン理論にズレ? 宇宙膨張が示す新たな…
  • 7
    沖縄ではマーガリンを「バター」と呼び、味噌汁はも…
  • 8
    クルスク州の戦場はロシア兵の「肉挽き機」に...ロシ…
  • 9
    メーガン妃が「輝きを失った瞬間」が話題に...その時…
  • 10
    中国富裕層の日本移住が増える訳......日本の医療制…
  • 1
    朝食で老化が早まる可能性...研究者が「超加工食品」に警鐘【最新研究】
  • 2
    北朝鮮兵が「下品なビデオ」を見ている...ロシア軍参加で「ネットの自由」を得た兵士が見ていた動画とは?
  • 3
    外来種の巨大ビルマニシキヘビが、シカを捕食...大きな身体を「丸呑み」する衝撃シーンの撮影に成功
  • 4
    朝鮮戦争に従軍のアメリカ人が写した「75年前の韓国…
  • 5
    自分は「純粋な韓国人」と信じていた女性が、DNA検査…
  • 6
    北朝鮮兵が味方のロシア兵に発砲して2人死亡!? ウク…
  • 7
    「会見拒否」で自滅する松本人志を吉本興業が「切り…
  • 8
    足跡が見つかることさえ珍しい...「超希少」だが「大…
  • 9
    モスクワで高層ビルより高い「糞水(ふんすい)」噴…
  • 10
    ロシア陣地で大胆攻撃、集中砲火にも屈せず...M2ブラ…
日本再発見 シーズン2
CHALLENGING INNOVATOR
Wonderful Story