コラム
酒井啓子中東徒然日記
イラク:地方選挙で反政府派再燃か
イラク戦争から10年なのに日本での反応はさっぱり、と前回、書いた。
一方で、アラビア語の主要メディアは、4月9日になって「10年」回顧の記事を多く掲載している。そう、10年前に米軍がバグダードの市中に入り、サッダーム・フセインの銅像を引き倒して、「実質的なフセイン政権の打倒」を実現した日だ。アラブ諸国にとっては、米英が勝手に攻撃を始めた3月20日よりも、外国の手でフセイン政権が倒された4月9日のほうが、振り返るべき日なのだろう。
特に、最近ではイラクでの死者数が再び増えている。イラク・ボディ・カウントによれば、昨年1年のイラク人民間人の死者は1か月平均で380人で、それ以前より40人ほど増えている。2012年から増えた、というと、つい2011年末に米軍が撤退したせいか、と考えがちだが、月によって200人から500人までばらつきがあるので、一概にそうもいえない。
それより最近の治安の悪化の原因になっているのが、地方選挙を巡る政治抗争の激化だ。来る4月20日に、第3回地方議会選挙が全国一斉に実施されるのだが、来年には国会選挙を控えているので、その前哨戦として注目されている。その選挙対策のつもりか、マーリキー首相は昨年12月、スンナ派の大物政治家で副首相、外務担当相の経験もあるイーサウィ財政相に対する追い落としを開始した。イーサウィの警護官(複数)にテロ容疑がかけられ、当局に拘束されたのである。今年に入ってからは、本人が直接襲撃される事件も発生した。
この手口は、2011年末に、同じくスンナ派政党の重鎮、ハーシミー副大統領に対して行われた方法と同じだ。まず警備官が首相など要人に対する暗殺計画事件に関与していたとして捕え、その後本人に対しても「死刑」判決を下した。ハーシミーは国外に逃げて死刑は免れているが、マーリキー政権としては、ライバルが国内にいないだけでもありがたい、というところだろう。
次に狙われたのが、イーサウィ財政相だったわけだが、イーサウィとハーシミーでは同じスンナ派政治家でも、その意味が全く違う。ハーシミーは、イラク戦争まではイラク国外で活動していた亡命政治家だ。地元の支持基盤はない。
一方、イーサウィは、戦前からずっと地元のアンバール県で医療行政に携わってきた人物である。特に2004年、米軍のファッルージャに対する激しい掃討作戦が行われたとき、同市の総合病院の長を務めていた。戦争下でも内戦下でも、被害を受けた住民の側に立ち、それを背景に政治の世界に入ったのだろう。
だからこそ、政府がイーサウィを糾弾し始めてからというもの、ファッルージャを中心に、アンバール県の住民感情に火がついた。連日のように反政府デモが続いているのである。そもそもファッルージャは、米軍駐留時代に最も住民の反米意識が強く、それを利用して海外からさまざまなイスラーム過激派が流入した地域だ。この県で殺害された米兵の数は、全体の3分の1にも上る。県人口はイラクの全人口の5%程度だというのに、である。
2006年以降、米軍はなんとかアンバール県の治安を回復しようと、地元部族を懐柔して、海外からの過激派と地元住民の間を割くことに成功した。その結果、2008年後半以降は米兵やイラク人民間人の死者も大きく減少し、米軍はなんとか「イラクは安定した」との面目を保って、撤退できたのである。
それだけ苦労したこの地域の安定が、選挙前の派閥政争が原因で崩されつつある。これまでの「宗派間和解」の努力を水の泡にしても、マーリキー首相は権力強化に邁進しているのだろうか。1月には「混乱よりも独裁のほうがマシだろう」とも聞こえる発言を行い、顰蹙を買っている。10年前に引き倒された銅像の姿と、重ならなければよいのだが。
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