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コラム
町山智浩やじうまUSAウォッチ
ニューズウィークの辛口批評家にとって「映画の黄金時代」とは
東京ローカルのUHF局TOKYO MXテレビで、今年の4月から「松嶋×町山 未公開映画を観るTV」という番組をやっている(毎週日曜日午後11時〜)。
大スターが出てない、などの理由で日本では公開されないアメリカ映画をいきなりテレビで放送してしまおうという番組で、今週末(8月9日)から2週にわたって、『This Film Is Not Yet Rated(この映画はまだレイティングされていません)』を放送する。
これは、アメリカの「映倫」にあたるMPAA(アメリカ映画協会)という団体の正体を暴こうとするドキュメンタリー映画。
MPAAは映画を以下のように年齢別にレイティングする。
G(一般向け・幼児から大人まで誰でも観られる)、
PG(9歳以下の子どもは保護者の同伴が必要)、
PG13(13歳以下の子どもは保護者の同伴が必要)、
R(17歳以下は保護者の同伴が必要)、
NC−17(17歳以下は入場不可)。
しかし、その判断基準は明文化されていない。謎なのだ。だから、いろいろな矛盾が指摘されている。
たとえば、ハリウッド・メジャー(MPAAにお金を出している大手映画会社)には裁定が甘く、インディペンデントの映画には厳しい。暴力を能天気に描いた娯楽アクション映画はPGかPG13で、暴力の恐ろしさをリアルに描くとRやNC−17になる。レイプ描写には甘く、同性愛描写には厳しい。
なかにはジョン・ウォーターズ監督の『ダーティ・シェイム』のように、セックス描写や裸が一切なくてもNC−17になってしまった映画もある。この映画には汚物フェチとか匂いフェチとか、セックス以外のものに欲情するヘンタイばかりが出てくるのだ。
MPAAにNC−17とレイティングされると新聞に広告を打つことができない。最近ではアトム・エゴヤン監督の『秘密のかけら』がNC−17にレイティングされて興行的に大失敗した。女の子とセックスをしているケヴィン・ベーコンの尻を後ろから見たコリン・ファースが欲情してベーコンの尻に挿入するシーンがあったからだ。
さて、この映画『This Film Is Not Rated Yet』にデヴィッド・アンセンという映画批評家が登場する。アンセンは77年から現在まで『ニューズウィーク』誌の映画評を書き続けている。シカゴ・サン・タイムズ紙のロジャー・エバート、タイム誌のリチャード・コーリスとリチャード・シッケル、ニューヨーク・タイムズ紙のA・C・スコットなどと並んでアメリカの映画批評家を代表する人物だ。
アンセンは『This Film Is Not Rated Yet』でMPAAを徹底的に攻撃する。映画に勝手なモラルを押し付けて今の映画をつまらなくした元凶だと。70年代のアメリカ映画はもっともっと自由だったと。
アンセンたちは、60年代末アメリカ映画革命の申し子だ。
それまでのハリウッド映画はヘイズ・コードという自主規制に縛られ、幼児から大人まで一緒に観られる内容しか作ることができなかった。暴力やセックスや、反社会的行為の描写は厳しく管理された。夫婦ですら同じベッドには寝ないし、拳銃で撃たれても血は流れない。どんなに悪い奴でも絶対にFUCKやSHITと言わなかった。
そんな健全なアメリカ映画に退屈した若者たちは、ヨーロッパや日本の映画に夢中になった。クロサワの映画で斬られたサムライは血しぶきを撒き散らし、ベルイマンの映画では少女が奔放にセックスし、ゴダールの映画ではチンピラが警官を射殺する。そんな「不良の映画」にアンセンたち若きアメリカ人たちは目を開かれた。「これは撮影所で作られたおとぎ話とは違う。現実だ!」
そして60年代、ケネディ暗殺、ベトナム戦争、人種暴動など、血みどろの暴力がアメリカの日常を襲い、映像がテレビで茶の間に放送された。ピル解禁、フリー・セックスと性革命が進んだ。公民権運動、学生運動、反戦デモ、ドロップアウト、若者たちが社会に徹底的に反抗した。この革命に取り残されたハリウッドは68年、やっとヘイズ・コードを廃止し、代わりに年齢別のレイティング・システムを導入した。
すると、まるで堰を切ったように、暴力とセックスと反抗がハリウッド映画からあふれ出した。『俺たちに明日はない』『イージーライダー』『ギャンブラー』『ゴッドファーザー』『真夜中のカーボーイ』『タクシードライバー』......。
監督ではフランシス・コッポラ、ロバート・アルトマン、マーティン・スコセッシ、そしてスティーヴン・スピルバーグなどが登場した。彼らの映画はセックスと暴力だけではなく、それまでのハリウッド映画がファンタジーを守るために除外してきたものをすべて映画に取り込もうとした。斬新で実験的な映像や編集や音楽、現実社会や政治への批評、人間の暗黒面をも直視する文学性、監督個人の体験や苦悩を込めた作家性......。この頃のアメリカ映画はまさに総合芸術だったのだ。
「この時代を『アメリカ映画の黄金時代』と呼ぶのはあまりに陳腐だが、私たちにとっては確かに黄金時代だった」
デヴィッド・アンセンは、先日出版されたニューズウィーク増刊『映画ザ・ベスト300』にそう書いている。本書の巻頭には、世の中には無数の『名作映画ベスト100』が存在するが、世に出たそばから文句が殺到すると書かれている。「なぜあの作品を外したのか」と。アンセンも、この本のなかでAFI(アメリカン・フィルム・インスティテュート)が選出した「偉大なアメリカ映画ベスト100」にあれこれイチャモンをつけている。
筆者も、この本のセレクションに不満がいろいろある。『Mr.& Mrs.スミス』なんて結末がないまま終わる尻切れトンボ映画を誉めるのかよ、とか。『オースティン・パワーズ』は続編よりも1作目のほうが面白いに決まってるじゃん、とか。デヴィッド・フィンチャーの『セブン』がワーストだなんてセンス悪いねえ、とか。
逆に「そうそう!」と思わず膝を打つセレクトも多い。『張り込み』(87年)は今では誰も思い出さないが、サスペンスとコメディとロマンスとアクションをベストのバランスでミックスしたジョン・バダム監督の職人芸の結晶だった。スティーヴ・マーティンの『LAストーリー 恋が降る街』(91年)は、ロサンジェルスという街そのものをギャグのネタにしまくった快作で、サラ・ジェシカ・パーカーの才能はここから爆発したのだ。こういう、普通の映画史の本などではまるで話題に上らない通好みの映画や、個人的に偏愛している作品が選ばれているとうれしくなる。
自分だけが愛していると思っていた映画を他の人も愛していたことを知ると、なんでこんなに幸福になるんだろうか。
ただ、このベスト300、後半はどんどん映画が弱くなっていく。『ダイ・ハード4.0』『パイレーツ・オブ・カリビアン』なんて遊園地映画を『市民ケーン』や『ラスト・ショー』と同じリストに入れていいわけがない。それはアンセンのせいではなく、やはりアメリカ映画が衰退しているせいだ。MPAAもその犯人の一人なわけだが。
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