コラム

フェミニズム対ナショナリズムの戦争に発展した慰安婦問題

2014年09月17日(水)18時10分

 朝日新聞の「慰安婦」をめぐる大誤報について、木村伊量社長は9月11日に記者会見を開いて謝罪し、第三者委員会をつくって検証すると約束した。これは肝心の「強制連行」を撤回するのかしないのかはっきりせず、「アジアとの和解や女性の人権などの主張を続けていく姿勢は変わらない」と開き直るものだが、とりあえず一区切りついた。

 私はNHKに勤務していた1991年に朝鮮人強制連行の取材をして以来、慰安婦問題を見てきたが、事実関係は当初から明らかだった。軍や朝鮮総督府が慰安婦を暴力的に強制連行した事実はないが、民間の売春業者が人身売買をした事実はある。これは歴史家も合意しており、争いはない。

 1992年に宮沢首相が韓国に謝罪したときはそれほど大きな問題ではなかった。翌年に河野談話が出たときも、韓国は騒いだが日本人はほとんど関心をもたなかった。日本政府は人身売買については河野談話で謝罪し、アジア女性基金に出資する形で非公式の賠償もした。それ以上の国家賠償は、国際法上できない。

 これでいったん決着した問題が再燃したのは、2000年代に政治的に追い詰められた韓国の盧武鉉大統領が、この問題を蒸し返してからだ。これもよくある「反日カード」で、日本政府は相手にしなかったが、外交的には問題にならない韓国の主張をアメリカが支援し、議会が慰安婦非難決議などを出した。

 外務省は、日本政府の法的責任は日韓基本条約で「完全かつ最終的に解決」され、問題は河野談話で決着ずみだと反論したが、その談話に「強制」という言葉が入っていたのが失敗だった。韓国政府は「国家の強制だから国家賠償しろ」と要求し、欧米メディアも「性奴隷」を騒ぎ始めて、問題が世界に拡大した。

 ところが2000年代に、「売春は犯罪だ」とか「慰安婦は強姦だ」と主張するフェミニストが出てきた。彼らにとっては売春の責任は国家が負うもので、「人道に対する罪」には時効がないので、この罪は無限に遡及適用される。2000年に元朝日新聞の松井やよりなどが主催した「女性国際戦犯法廷」では、昭和天皇に欠席裁判で有罪を宣告した。

 ここまで来ると荒唐無稽だが、90年代にボスニアの集団強姦事件などでフェミニズムが高まった流れに乗り、2000年代に「慰安婦」は世界に広がった。外務省は、この流れを読み誤った。彼らは原則論を繰り返したが、相手は感情的アジテーションなので、論理では説得できない。

 これに対して、日本のナショナリズムも爆発した。朝日新聞が大誤報を訂正した8月には、週刊誌が朝日を「売国奴」とか「反日新聞」などと罵倒する特集を毎週のように組み、『正論』や『WiLL』などの右派論壇誌は全ページをつぶして大特集で「慰安婦も南京大虐殺もなかった」などと気勢を上げている。

 フェミニズムは思想と呼べる内容のない感情論だが、ナショナリズムも感情である。女性の人権も国家の尊厳も大事だが、感情で政治を決めてはいけない。それが感情論によって何百年も宗教戦争を続けた結果、ヨーロッパ人が学んだ貴重な教訓である。政教分離や信教の自由といった原則は、政治を宗教的感情から切り離すためにつくられたのだ。

 単なる売春婦の話をここまで大事件に仕立てた朝日新聞の責任は重いが、これは外交的には決着のついた問題である。日本政府に道義的責任はあるが、法的責任はない。前者についてはすでに河野談話で謝罪しており、後者については個人補償は韓国政府が行うことが日韓請求権協定で決まっている。

 だからまず朝日新聞が誤報をすべて撤回し、歴史的事実を詳しく検証する義務があるが、それとは別に国が事実関係を調査する必要がある。内閣は動けないので、国会が原発事故のときのような特別調査委員会をつくり、徹底的に史実を解明すべきだ。歴史を書く仕事は、新聞記者にまかせるには余りにも重要である。

プロフィール

池田信夫

経済学者。1953年、京都府生まれ。東京大学経済学部を卒業後、NHK入社。93年に退職後、国際大学GLOCOM教授、経済産業研究所上席研究員などを経て、現在は株式会社アゴラ研究所所長。学術博士(慶應義塾大学)。著書に『アベノミクスの幻想』、『「空気」の構造』、共著に『なぜ世界は不況に陥ったのか』など。池田信夫blogのほか、言論サイトアゴラを主宰。

今、あなたにオススメ
ニュース速報

ビジネス

中国への融資終了に具体的措置を、米財務長官がアジア

ビジネス

ベッセント長官、日韓との生産的な貿易協議を歓迎 米

ワールド

アングル:バングラ繊維産業、国内リサイクル能力向上

ワールド

ガザ支援搬入認めるようイスラエル首相に要請=トラン
MAGAZINE
特集:独占取材 カンボジア国際詐欺
特集:独占取材 カンボジア国際詐欺
2025年4月29日号(4/22発売)

タイ・ミャンマーでの大摘発を経て焦点はカンボジアへ。政府と癒着した犯罪の巣窟に日本人の影

メールマガジンのご登録はこちらから。
人気ランキング
  • 1
    日本旅行が世界を魅了する本当の理由は「円安」ではない
  • 2
    中国で「ネズミ人間」が増殖中...その驚きの正体とは? いずれ中国共産党を脅かす可能性も
  • 3
    トランプ政権の悪評が直撃、各国がアメリカへの渡航勧告を強化
  • 4
    健康寿命は延ばせる...認知症「14のリスク要因」とは…
  • 5
    アメリカ鉄鋼産業の復活へ...鍵はトランプ関税ではな…
  • 6
    関税ショックのベトナムすらアメリカ寄りに...南シナ…
  • 7
    ロケット弾直撃で次々に爆発、ロシア軍ヘリ4機が「破…
  • 8
    ロシア武器庫が爆発、巨大な火の玉が吹き上がる...ロ…
  • 9
    ビザ取消1300人超──アメリカで留学生の「粛清」進む
  • 10
    パニック発作の原因の多くは「ガス」だった...「ビタ…
  • 1
    日本旅行が世界を魅了する本当の理由は「円安」ではない
  • 2
    「生はちみつ」と「純粋はちみつ」は何が違うのか?...「偽スーパーフード」に専門家が警鐘
  • 3
    「スケールが違う」天の川にそっくりな銀河、宇宙初期に発見される
  • 4
    【クイズ】「地球の肺」と呼ばれる場所はどこ?
  • 5
    女性職員を毎日「ランチに誘う」...90歳の男性ボラン…
  • 6
    教皇死去を喜ぶトランプ派議員「神の手が悪を打ち負…
  • 7
    『職場の「困った人」をうまく動かす心理術』は必ず…
  • 8
    自宅の天井から「謎の物体」が...「これは何?」と投…
  • 9
    「100歳まで食・酒を楽しもう」肝機能が復活! 脂肪…
  • 10
    トランプ政権はナチスと類似?――「独裁者はまず大学…
  • 1
    【話題の写真】高速列車で前席のカップルが「最悪の行為」に及ぶ...インド人男性の撮影した「衝撃写真」にネット震撼【画像】
  • 2
    健康寿命を伸ばすカギは「人体最大の器官」にあった...糖尿病を予防し、がんと闘う効果にも期待が
  • 3
    【クイズ】世界で最も「レアアースの埋蔵量」が多い国はどこ?
  • 4
    【心が疲れたとき】メンタルが一瞬で “最…
  • 5
    中居正広は何をしたのか? 真相を知るためにできる…
  • 6
    間食はなぜ「ナッツ一択」なのか?...がん・心疾患・抜…
  • 7
    日本旅行が世界を魅了する本当の理由は「円安」では…
  • 8
    自らの醜悪さを晒すだけ...ジブリ風AIイラストに「大…
  • 9
    北朝鮮兵の親たち、息子の「ロシア送り」を阻止する…
  • 10
    【クイズ】世界で最も「半導体の工場」が多い国どこ…
トランプ2.0記事まとめ
日本再発見 シーズン2
CHALLENGING INNOVATOR
Wonderful Story