コラム
ふるまい よしこ中国 風見鶏便り
歴史遺留問題
今年の6月4日の夜、中国の80年代後半生まれの若者たちと会食の約束をしていた。
「お、戦車の日だ」。それぞれの予定を繰り合わせてようやくこの日に決まった時、そのうちの一人がこの日が天安門事件24周年だと気がついてこう言った。「よし、一杯目の酒は地面に撒いて追悼しよう」、もう一人が言う。事件当時はまだ幼稚園児だったはずの彼らの口からさらりとこういう言葉が流れてきたことにちょっと驚いた。
彼らは皆、地方都市か、あるいは都市とも呼べない小さな街の出身者だ。偶然かもしれないが彼らは進学先も北京の大学ではなく、なんどか転職して今の北京の会社で一緒に働いている。そして、今後もまた時期を見て転職して分かれていくのだろう。中国の若者たちはひとところにずっと勤め続ける人の方が珍しい。
中国では天安門事件のことを公開の場で語るのはいまだにタブーだ。教科書にも一言、「政治動乱が起きた」としか書かれていないという。だが彼らはそのそれぞれの成長過程で事件のことを聞きかじり、自分たちが直接経験したわけでもない事件を周囲に尋ねたり、その好奇心でネットを漁ったりして自分なりに理解したらしい。不思議がるわたしに、「今はネットがあるからね、外国の情報だって簡単に入ってくるよ」と笑った。
確かにまた今年も天安門事件の記念日が近づいて、ツィッターでは例年のように当時の思い出語りが始まった頃、中国国産マイクロブログ「微博」上でも検閲の目を気にしつつさまざまな手段でその「その日の情報」が交わされ始めた。
もちろん微博では言葉のやり取りではキーワード検索による検閲に簡単に引っかかって消されてしまうため、最近では言いたいことを「画像」にして流す、という手段が流行している。画像なら検閲側が実際にそれを目にして確認した上で削除するしかないからだ。文章も書いたものを画像に撮り直して流す。そうすればいつかは削除されるとしても、できるだけ長い時間にそこに残り、あるいは誰かがコピーしてくれて、多くの人たちの目に触れることができるからだ。
今年の天安門事件記念日には欧米では「タンク・マン」と呼ばれている、身一つで並み居る戦車を停めてしまった男性の映像(上写真)のパロディーが、たくさんインターネットに流れた。日本でも報道されたが、香港で人気の的になっていた巨大なアヒルを戦車とすり替えた画像などがそうだ。
その他タバコのパッケージを戦車の代わりにしたりしたものもよく目にした。
また誰が作ったのか、6月1日の「世界こどもの日」に合わせて、組立ブロック「レゴ」で作った模型バージョンがポータルサイトに出現した。
だがこの中国人なら誰が見ても「タンク・マン」を思い出すはずのこの画像は、政治や時事問題のページではなく、自動車ファンのページに掲載されるという手の込みようだった。
さらに、あるポータルサイトの微博公式アカウントの一つは、句点だけを64個書き込んだつぶやきを流した。64個とはつまり天安門事件が起こった日付をとって中国人がこの事件を呼ぶ「64」だ。この書き込みはいったん削除されたが、なぜかその後また出現したために、結局そのポータルサイトは「内部反省書を提出するように」と命じられたという。
他にも「点」という文字を戦車に見立てて、「点点点点点点点点人」のように意味のない書き込みがビジュアル的には明らかな手法も目にした。また「64」という文字を検眼表に仕立てたものは思わずプリントアウトして視力検査用に色んな所に配ってまわろうか、と思うくらい見事なアイディアだった。
そしてその日が過ぎた後、インターネットで流れてきた情報によると、今年中国でも映画が公開された、ヴィクトル・ユーゴー原作のミュージカル「レ・ミゼラブル」の挿入歌「Do You Hear The People Sing」(邦題:民衆の歌)の中国語歌詞をそのままコピーして微博で流した人がたくさんいたという。権力の圧政に抗議して立ち上がる民衆の声が歌詞になっており、英語圏ではこれまでも政府に対する抗議活動などで歌われているらしい。
だが、わたしの記憶ではこんなに「明るい」天安門事件記念はこれまでになかった。今回はビジュアルや感性に語りかけて記憶を呼び起こすタイプの事例が多く出回り、見た目は穏やかながら、それを作り、流し、さらにそれを流通させた者たちの秘めた思いが感じられる。ややもすれば感情的な爆発に向かいがちな、事件の体験者あるいはその世代の人たち(40歳後半以上)に比べて、まったく別の「意識」が育ってきているのを感じた。それがあの日わたしが食事をした彼らの世代ではなかったか。
天安門事件を直接体験していない彼らには、身内にも直接の経験者はいないようだった。だが、学校で習う歴史に隠された「事実」を見つけ出し共有している。その事実の取り扱いはこの国ではまだ、一歩間違えば人生の道を踏み外してしまうことにもなりかねず、彼らはそれを心得た上で知り得た事実と微妙な距離感を保ちつつ、日々暮らしている。
こんな口には出せない「事実」が水面下で溜まり続けている。見る者を思わずクスっと笑わせる、若い世代のこんなブラックな創造力は物事が風化していない現実を知ることが出来る。だが、一方で当時家族を亡くし、あるいは自身がケガをしたり、生活に支障をきたした人たちの多くは当然のことながら事件を忘れているわけもなく、だが口を塞がれたままひっそりと生きているのである。このような社会はどうなっていくのだろう?
そんなことを考えていたちょうどその時、アモイで帰宅ラッシュ時に多くの人を載せた公共バスが突然出火し、47人が犠牲になるという事件が起きた。その夜遅く出火の原因は乗客による放火であり、その容疑者として今年「60歳」のアモイ市民の男性が割り出されたという情報がネットを駆け巡った。翌日、アモイ市政府は記者会見で、バスに火をつけた「59歳」の陳水総容疑者も死亡したことを明らかにした。
政府発表よりも先にネットが容疑者を割り出したのは、この陳容疑者が微博にアカウントを開いて「陳情を繰り返し、不満をつのらせていた様子」を書き残していたからだ。そこには、自分が今年60歳、学歴は小学校卒業で、「1970年に家庭生活の来源が切断され、一家揃って田舎へ移り住んだが、苦労を重ねて1983年にアモイに戻ってきた」と書かれていた。そこにはっきりとは書かれていないが、中国人ならばこれを読めばすぐに、1970年当時の文化大革命の影響で地方に追いやられ、1983年ごろに名誉を回復して市内に戻れた人物なのだ、とすぐ分かる。つまり、陳容疑者はかつての政治運動に人生を狂わされた犠牲者の一人だったのだ。
微博によれば、陳容疑者はアモイに戻った後結婚したが貧しい生活を続けた。今年やっと社会保障を受けられる60歳に達したため申請しようとしたところ、なんと1983年にアモイ市内に戸籍を戻した際に自分の年令が書き換えられていたことが分かったという。自称60歳、政府発表では59歳になっていたのはこのためだった。
日本なら信じられない話だが、わたしはかつて日本で中国人の招聘に関わった経験があり、確かに何度もこのような「政府担当官のいいかげんさ」に直面した。当時の中国では、まず海外の保証人経由で目的国のビザを申請し、そのビザがおりてから中国政府にパスポートを申請、受け取るという形を取っていた。だが、ビザ申請書類の名前と実際におりたパスポートの名前が違うなんてざらで、ひどい時には漢字の同音違いどころか、「担当官が難しい漢字を書けなかった」という理由でパスポートの名前を勝手に書き換えられた人もいた。ご本人はあっけらかんとしているが、日本のような土地ではこれがネックになり、非常に苦労した。
当時の経験を振り返っても、明らかに官も民もそんなに頓着していなかった。もしかしたら陳容疑者も社会保障という現実にぶち当たるまであまり気にして来なかったのかもしれない。
陳容疑者はかつての担当官による書き間違えの是正を求めて役所を駆けまわり、陳情を始めたが、結局さまざまな部署をたらい回しにされ、何度も行き来を繰り返した挙句「これは歴史遺留問題だ。だからどうしようもない」と言われた、と微博に記録されている。その結果、「世の中を恨み、ラッシュ時のバスに放火した」――これが公安当局の説明だった。これを受けて、社会には「社会に翻弄された気の毒な人だ」「いや、自分が不当な立場に置かれたからといって、全く罪のない人を無差別に道連れにしていいわけがない」という熱い論争が起こった。
さらにメディアが取材するうちに、この陳水総容疑者はもともと日頃からカッとくるタイプで近所の人たちのみならず、自宅と隣接する実兄所有の店舗の出入り口をめぐっても実兄らと大げんかをしたことがあることも明らかになっている。だが一方で実妹たちは取材に訪れた記者に、陳容疑者が陳情に持ち歩いていた資料の公開を拒み、「兄は確かに今年60歳。でも、もうこれ以上誰も信用しない。一生苦労してきてやっとのことで社会保障を受けられると思っていたのに」と語ったという。
陳が社会保障を受けられないことに激しい不満を感じていたらしいことは数々の報道から伝わってくる。だが、なぜまったく見知らぬ人たちで混み合う専用レーンバス「BRT」にガソリンを撒き、火をつけるという行為に走ったのか。そこで彼は何を期待したのか。
だが、報道からもそんな疑問が解けないうちに今度はこんなつぶやきがネットに流れた。
「ご近所さんがお茶の葉を親戚に届けに行くという陳容疑者に出くわし、そこで『BRTなら速いよ』と教えてやったと言う。陳はそれまでBRTに乗ったことがなかったらしい。もう一つ、小学校程度の学歴の人間がわずか1日の間に微博にいくつも書き込み、それも2、3秒間に一本ずつというスピードはタイピングの速さからして若者もびっくりだ」
この証言が本当ならば自分が火をつけるバスのことを容疑者はこの日初めて知ったことになる(それも偶然に)。
実は微博の件はわたしも最初に読んだ時に不思議に感じていた。当年60歳の、小学校教育しか受けていない、またその後も社会保障を心待ちにするほど極貧の生活をしてきた人物が書くつぶやきとしては、あまりにもその微博は要点がきちんとまとまり、理路整然と書き込まれていたからだ。多少文学的な言い回しもある。「犯行」前日の6月6日になってわざわざ、どこかにまとめて打ち込まれたものを微博の1回文字制限ごとに9本に分割して貼り付けたものであることは明らかだ。
だが、そんなやり方を陳容疑者のような人物がなぜ知っていたのか?
公安も犯人の特定は早かったが、その後同容疑者の動機については「社会に恨みを持っていた」としか説明しておらず、数日間容疑者の横顔については更新されていない。そこに気がついた人たちの間から、事件全貌に対する疑問の声も上がり始めている。だが、47人もの人が亡くなった大事件で遺族や被害者に対する遠慮もあって、公安当局の判断を覆すほど確固たる証拠はまだ明らかにされていない。
陳容疑者が面と向かって言われたという「歴史遺留問題」。これが本当にこの事件のきっかけだとしたら、この国が負っている歴史問題はどれほど重いものだろう。それがもしこんな形で吹き出すのであれば、今後なにが起こるのだろうか。この事件が本当ならば、それはそれでとても怖いことではないのか。
「一旦災難が起これば、逃げ道はない。吉林の家禽工場の火災現場も、アモイのバス火災現場もだ。それってこの土地での暮らしそのものじゃないか」
逃げ場がない生活。このネットユーザーの言葉はとても印象的だ。
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