コラム
ふるまい よしこ中国 風見鶏便り
「大使憎けりゃバックパックまで...」?!陳光誠氏騒ぎの舞台裏
すでにご存じの方も多いだろう。日本がゴールデンウィークを楽しんでいる真っ最中に、前回このコラムでビデオメッセージの全訳を紹介した、盲目の人権活動家、陳光誠氏を巡る状況が急展開した。すでに今発売中の「Newsweek Japan」本誌にも、同氏と10年以来の付き合いの米「Newsweek」のメリンダ・リウ北京支局長の手記が掲載されている。リウ支局長は病院に入った陳氏と直接会話を交わし、この手記は二転三転する情勢の中で右往左往するメディアと支援者に重要な情報を提供した。
簡単にまとめると、陳氏は先週水曜日にロック米国大使、および北京に駆け付けたキャンベル国務次官補、そしてコー米政府首席法務顧問に伴われて米国大使館を出て病院での検査と治療に向かった(付き添った三人の名前を西洋メディアは「強力な三人」と形容した)。その時点では「陳氏は(亡命ではなく)中国残留を求め」、米国側も陳氏の身の安全についての確約を中国政府から取り付けたとされ、一件落着かと思われていた。
しかし、陳氏と言葉を交わした友人の中から同日夜になって、「本当は陳氏は出国を求めている」という情報が流れ、大騒ぎが始まる。メディアは夜半にかけて情報の確認に追われ、情報を流した当人はそのまま中国政府の監視下に置かれた。結果からすると、山東省の自宅から中国の政府関係者に付き添われて病院で陳氏と再会した妻子が、上京する傍ら中国政府関係者に脅迫されたと証言、それを聞いた陳氏が身の危険を感じて気持ちを変えて、病院のベッドから「出国希望」を周囲に訴え始めだしたためだった。
翌日には米中戦略経済対話を控えていた米大使館は再び大混乱に陥ったはずだ。一時は「同対話の前に片付けようとした米国が陳氏をほっぽり出した」という声まで上がり、インターネット上では怒号が飛び交った...が、このあたりの詳しい状況は前述したメリンダ・リウ氏の手記を読むか、ニュースを検索して読んでいただきたい。
わたしもこのとき情報を追い続けたが、すでに同戦略経済対話に出席するために訪中したヒラリー・クリントン米国務長官を迎えた米国大使館内で関係者はどんなふうにこの問題の交渉にあたっているのだろう、と気になった。「何が起こっている」よりもなにも、政府首脳を交えた大型会議を前にただでさえ忙しいはずの大使館内で、両者の関係すらを左右するほどセンシティブな事件を抱え込んでしまったのだから。その処理を誤れば、「人権を重んじる民主主義国」という米国の看板に大きくキズがつく。ある意味、米国は「経済か人権か」の厳しい選択を迫られたわけだった。
結果からして、米国はどうにか逃げ切った、といえるだろう。実のところ、今の時点では戦略経済対話がどうだったのか、多くの人たちは関心すら持っていない。陳氏事件のインパクトがあまりにも大きすぎ、人々の視点は完全にそちらへ向かった。その陳氏の名前をヒラリー・クリントンは皆が注目する場で口にすることなく、中国側に「陳氏が正式な手続きを経て留学のために出国することは可能」と言わせしめたのだから。
だが、ヒラリーが中国を離れてからことは再び水面下へ。米国大使館員はすでに中国管轄下の病院にいる陳氏との面会もままならないと伝えられる。同時に中国政府の声を代弁することでよく知られる、いくつかの中国メディアは陳氏とゲイリー・ロック米大使を非難する記事を掲載し続けている。ロック大使に対しては、同氏が赴任する際に自分でバックパックを背負っていたこと、立ち寄ったシアトル空港のスターバックスで自分でコーヒーを買ったこと、その際ディスカウントクーポンを使おうとしたこと(しかし断られたらしい)、中国国内の出張でエコノミークラスを利用したこと、などまで「罪状」として羅列され、ネットユーザーからは「中国高官がやらないことばかりだからな」と失笑を買っている。それでも中国当局は憤まんやるかたないようだ。
米国側も冷静を保っているようで実はこの「売られたケンカ」をだまってやり過ごすつもりではないらしい。今週に入って米紙「ニューヨークタイムズ」が米国関係者が語った、交渉の舞台裏を記事「Behind Twists of Diplomacy in the Case of a Chinese Dissident」にまとめている(脇にそれるが、米国は今回、メディアをうまく利用した。陳氏を病院に連れて行く車内で「ワシントン・ポスト」紙に取材させ、米議会の関連公聴会を前にロック大使がCNNの単独インタビューに答え、そしてこの「ニューヨークタイムズ」紙記事だ)。
そこでは、まず陳氏が米国大使館にかくまわれたとき(4月27日)、ゲイリー・ロック大使はバリ島で休暇を楽しんでいる最中で、またコー首席法務顧問は偶然中国におり、揚子江で遊覧船に乗ろうとしていたところをヒラリーのチーフスタッフからの連絡を受けたという。また、タフなネゴシエーターのキャンベル次官補を指して「もうあいつとは話したくない」と崔天凱外交部副部長(副大臣に相当)が言ったとか、コー法務顧問が交渉場所の廊下で「陳氏は制裁を受けるべき」と主張する中国外交部関係者と大ゲンカになったとか、(ある意味米国側にとって都合がよい)文字通りのドラマチックな「舞台裏」が暴露されている。
そのコー法務顧問は、実際にはミャンマーのアウンサン・スーチーさんを例にして陳氏を大使館で30年かくまうことになる可能性も考えたうえで、1961年に韓国から米国に逃亡した、自身の父親が味わった辛い体験を陳氏に語って聞かせたという。もしかしたら、これが陳氏が病院入りした後で口にした、「大使館から出て行けという圧力を関係者から感じた」ということだったのかもしれない。
だが、中国側は最初の強硬な態度を和らげ始め、「36時間以内に問題を解決したい」と言い出す。国内残留を望む陳氏に対して中国国内の7大学への進学の可能性を示唆したが、一方でアメリカ側が提案した、陳氏の親戚ら13人への迫害に関する調査については断ったという。そうするうちに中国から「36時間どころか、陳を引き渡せば36分で解決することだ」という言葉も飛び出したそうだ。
だが、陳氏が電話で友人に「米国側は病院でも付き添ってくれると言っていたのに、皆帰ってしまった」と訴えた件について、「『氏が夫人とのプライバシーを大事にしたい』と言ったのでそっとした」と米国側担当者は証言した。...ううむ、「プライバシー」は米国人にとって守られるべき大事な個人の権利だが、一般的な中国人社会においては米国のそれとは微妙に違い、「姿を消せ」という意味にならないことを、この米国人に伝える人はいなかったのか。こうした、陳氏と米国的通念の間における通念や習慣、表現方法の違いが今回の事件で何度も食い違い、大きくその後の事態の変化を左右したことを痛感させられる。
「木曜日は大混乱だった」とこの関係者は証言する。木曜日は「米中戦略経済対話」の開幕日だった。しかし、その夜半にはアメリカ議会で陳氏の処遇に関する公聴会が開かれる予定になっており、それへの対応だろう、昼の戦略経済対話を終えてからロック大使はCNNのカメラに向かって、大使館内での陳氏の様子を逐一証言した。病院に送り出すまでどのように取り扱ったか、脱出時に足を骨折しただけではなく、陳氏の座っていたスツールが血で真っ赤に染まったため「大腸がんの疑いがある」と大使館の医務官が早期の検査を薦めたこと、さらには陳氏は中国残留を希望し、温家宝総理との会見を取り持ってほしいと依頼があったことなどが明らかになった。
その後、病院に入る陳氏に大使館が携帯電話を3台(4台、という情報もあるが)渡したにもかかわらず大使館関係者から電話してもつながらず、面会も拒否されるという厳しい状況に陥った。だがクリントン国務長官は金曜日夜に予定されていた記者会見を前に陳氏と直接話をすることができ、会見で彼の今後について米国の強いサポートを口にした。その結果、中国外交部スポークスマンがそれを受けるように「正規の手続を経た出国は可能」を口にしたという、これまたドラマチックな展開となったと。
わたしが今回の一連の流れを見守り続けた結果思うのは、今回の事件はある種の公開情報戦でもあったということだ。上述したようにまず米国は自国の主要メディアをしっかりと引き付けたうえで、さらに中国を刺激しないように水面下の話し合いを優先させながら、折を見て情報を放出した。米国をはじめとする西洋メディアは二転三転する状況に関係者も振り回されている様子を注意深く見守り、情報公開を待ちつつ状況分析を記事やツイッターで流し続け、陳氏と大使館の間に齟齬が見られる場合でもまずそれを追及することはせず、「陳氏の安全に向けて努力する米国政府」に矛先を向けることはしなかった。
一方で、稚拙だった部分は多い。まず、非常にドメスティックな陳氏という人物の感情の揺れを把握しきれず、米国大使館に駆け込みながら中国残留を望んだり、温家宝に会わせろと主張したり、米国大使館よりも先に友人に「出国したい」と助けを求めたりと、長年軟禁され続け、社会と隔絶されてきたという同情の余地は十分にあるが、大使館はそれを予想していなかった。その結果、彼を見守る人々は混乱し、振り回された。さらに約束したにもかかわらず関係者が病室を離れたり、盗聴や信号かく乱など中国のやり口は十分に知っていたはずなのに安易に「中国」を信頼したツケにも自ら苦しんだ。また、本国でこんなに速く公聴会が開かれるなぞ、思ってもいなかっただろう。
だが、まだ陳氏が中国国内にいる現在、西洋メディアは陳氏を守るためにそれらについて口をつぐんでいる。陳氏が出国すれば、それはきっと経験として語られるはずだ。いや語らざるを得ない話が多すぎる。もちろん、そうやって西洋社会で今回の事件に関する情報が良くも悪くも公開され、共有され、分析されていくことになる。
この事件で米国がかろうじて風上に立てた(陳氏は出国していないので勝利宣言はまだだ)のは、それはうまく情報を公開して情勢を挽回したからだ。そしてロック米国大使のバックパックまで持ち出して非難するしかない中国に比べて、米国はどうにか「メンツ」は保てたのかもしれない。かなり危うい戦いではあったが。
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