コラム
ふるまい よしこ中国 風見鶏便り
「誤報」の裏側
先週、世界を振り回した「江沢民死去」騒ぎは、6日夜に香港の亜洲電視(ATV)がテレビニュースでそれを流したのをピークに、その後あっという間にしぼんでしまった。この原稿を書いている今にいたるも、江沢民氏が生きているのか死んでいるのか、まったく分からない。
ただ、同氏がなんらかの理由で病院に入っていることは間違いない。だいたい09年の中華人民共和国建国60周年記念日に見せた老いさらばえた姿は人々に「その日」が遠くないことを人々に印象付け、またそれは来年に迫った指導者の世代交代を予想するときに日本メディア関係者が必ず触れる「上海派勢力の抵抗」要素を、中国人ネットオピニオンリーダーたちが排除する根拠になっている。特に今回は7月1日の中国共産党結党90年記念式典という晴れ舞台にも姿を現さなかったことが内外の憶測を呼ぶことは、中国政府も予測済みだったはずだ。
実は6日夜のATVニュースの「死去」発表を人々が用心しながらも信じる方へと傾いたのには、さらにいくつか別の根拠があった。
まず、「ATVの大株主、王征氏の母親の従姉は江沢民氏の妻」という情報だ。王氏自身は過去これを否定しているが、同氏は1990年代初めごろから不動産開発に携わり、上海の高架バイパス道路の建設で大儲けし、北京、杭州、重慶などでも不動産を開発するなど、地方人脈だけでは到底不可能な手広さとスピードで事業を拡大してきたことで「全国レベルの権力がついているのは確実」と思われている。
王氏の「全国レベルの権力」が江沢民氏だったとすると、なぜATVの死亡報道を許したのか? 殺到したメディアに同氏は「自分もテレビニュースを見て知った」と答えているが、大株主であり、また中国で広く商売をし、中国の政局に敏感であろうはずの彼のこの言葉を信じる者は局の内部外部を問わず、ほとんどいない。ATVがそれを敢えて報道したのは当初、「まず自分たちの党内態勢を整えてから死去を発表し、江氏の政治的影響力を削ごうとする現指導部に対する江氏一族の不満の発露」という憶測も飛び交った。もしそうであるならば、現指導部と江氏に代表される上海閥の権力争いが確実に存在するということになる。
だが、王氏はあっさりと責任を報道現場に押し付け、報道撤回宣言と謝罪文を出した。それは「現場の士気を大きく傷つけた」と言われている。しかし、ATVのニュース報道部は香港のテレビ報道界でも指折りの経験豊かなジャーナリストが何人もおり、どう見てもうっかりはあり得ない。全国政治協商会議委員という中央政府お墨付きの役職を持つ王征氏は、文字通り中央政府から香港に送り込まれた「メディア工作員」なのか?
実際に昨年、香港のテレビやラジオの放送管理担当機関である広播事務管理局が同氏の遠戚によるATVの経営権買収を正式に認可した際、香港では地元メディアが再び中国国内資本の手に落ちたことを嘆く声が広がった。すでに英字紙「サウス・チャイナ・モーニングポスト」や華字紙「明報」など主権返還前にはリベラルな市民が好んで読んでいた新聞にも中国資本が入り、報道の自己規制が常に人々の口に上るようになった。いまだに大株主が香港人のメディアでも、近年は中国国内企業の広告投下を求めて中央政府に批判的な記事を載せなくなっていると多くの人たちが指摘する。
しかし、それにしては腑に落ちない点がある。そしてこの点こそ、あの日多くのネットオピニオンリーダーがATVの発表を信頼したもう一つの理由だ。それは、死去報道日となった6日の午後、偶然にも「南方都市報」元編集長の程益中氏が近くATVのニュース総局長に就任することを国内向けマイクロブログで明らかにしたばかりだったことである。
同紙の上部機関であり、広東省広州市を拠点とするメディアグループ「南方集団」は中国でも指折りの「良心的なメディアグループ」として知られ、同紙のほか週間紙「南方週末」や北京で発行される「新京報」は売り上げを伸ばし続けている。その二紙の総編集長を務めた程氏を含む関係者4人が2004年に広州市の税務当局に汚職や横領罪で逮捕された事件は、中国全土のジャーナリストを震撼させた。
しかし、これは実は「南方都市報」紙が、広州市で03年に若者が一時拘置所で看守に殴り殺された事件をスクープし、それがきっかけとなって広州市当局に対する全国的な非難を起こしたこと、また世界的な恐慌を巻き起こしたSARSが03年末に再び広州市内に出現したことを報道したことへの、同市政府幹部による報復だったと言われている。当時、拘束された同氏らを助けようと、ジャーナリストや弁護士、学者らが中心になり、広州市や広東省政府に対して抗議や嘆願が繰り返された。程氏は証拠不十分で04年夏に不起訴処分となったが、二人が有罪となり収監された(が、すでに刑期を前倒しして釈放された)。
だから、中国国内のメディア関係者の多くが「良心のジャーナリスト」と呼ばれる程氏のATVへの就職が決まったことを喜んでいる。そして、そんな気骨のあるジャーナリストを迎え入れることを決めたATVで、大株主が「メディアつぶし」を狙っているとは思えないのである。実のところ、ここ数カ月、中国国内で政府ににらまれた、気鋭のジャーナリストが複数、香港のメディアに職場を見つけて移住しているという事実も注目すべき背景だ。
江氏の死について、「今は死ぬ時間を選べる時代だからね」とある中国人ジャーナリストは言った。つまり、政治局が都合の良いときに生命維持装置を止めることができるという意味だ。そうして死亡のニュースは遅かれ早かれ発表されるだろうが、今となってはそれほど重要なことではないような気がするのはさすがに失礼だろうか。
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