例えば、秋の時候の頁を開くと「爽やか」という季語がある。「爽やかが季語!?」と、これまたよく驚かれる。気持ちよく澄み切った大気はまさに秋のもの。初めてこの季語を知った時、そうか、今吸っているこの空気こそが「爽やか」なのだと感動したことを、私の肺が覚えている。
「爽やか」が季語なら、「冷やか」も季語。秋が進んでいくうちに皮膚に感じとる冷たさを意味する。
何気なく凭りかかる度に、背がひんやりとする柱。映像を持たない時候の季語「冷やか」を、「柱」というモノの存在によって、読み手の皮膚に感知させる。中七の「冷つく」が、いかにも一茶らしい飄々たる表現だ。
秋に覚える寒さは、この頃の海の色にも表れているよ、という一句。視覚で認識した「海の色」の変化によって、触覚で感知する季語「秋寒し」を表現しているのだ。
更に、「そぞろ寒」「やや寒」「肌寒」と並ぶ季語は、秋が進むに従って変化していく空気の微妙な感触を、私たちの皮膚にありありと再生していく。
季語を単なる風情のある季節の言葉だと思い込んでいる人も多いが、季語とは風雅のみに傾くものではない。
コロナが流行り始めた頃、幾つかの新聞紙面にこの句が紹介されていた。
戦後の引き揚げ船内で発生したコレラ。船は接岸を禁じられ、劣悪な環境の船内に人々は留められた。コロナ流行の初期、豪華客船に閉じ込められた人たちの様子が、このコレラ船と重なったことは言うまでもない。「ころり」とも呼ばれた感染症「コレラ」は、夏の季語になっている。
季語とは、日本人の文化と自然に根ざすもので、逆の言い方をすれば、季語1つ1つがそれらのインデックスの働きもする。つまり、歳時記にある「コレラ船」という季語は索引として機能し、歴史に紐づけられ、記憶を引き出す力を持っているのだ。
季語はインデックスであると同時に、ポートキーでもある。「ポート」は移すの意。ハリーポッターファンの皆さんならご存じの魔法だ。