木造建築を基本として、湿潤な気候の日本には、ローマの古代建築に相当するような建造物は存在しない。
それでは、前近代日本において、打ち捨てられたもの、破壊されたもの、崩れゆくもの、その痕跡に関心が向けられていなかったかと言えば、決してそういうことではない。
古代・中世には、人々が集住していた都を中心に大規模な廃墟が繰り返し出現している。その状況は、驚くほど現代――日本に限らず、グローバルな世界の"いま"とよく似ている。
たとえば、近年、大地震の記述で注目された鴨長明の『方丈記』は、都の3分の1が焼失したという安元の大火の惨状も記している。
また、いわゆる源平の合戦のさなかに、奈良の東大寺は平家によって焼き討ちされ、大仏殿が焼失し、大仏の首が焼け落ちた。廃墟化した宗教都市と破壊された巨大な仏像を目にした人々の衝撃の大きさは、『平家物語』に垣間見ることができる。
同じ時代に生きた歌人の西行は、戦乱の世にあって破格の行動力で漂泊の旅に身を置き、讃岐の善通寺近くに庵を結んだことがある。その庵の前の松に向かって次のような歌を詠みかけた。
久(ひさ)に経て我(わ)が後(のち)の世を問へよ松 跡しのぶべき人も無き身ぞ
長い長い命を保って、わたしの後生を弔っておくれ、松よ、わたしが亡くなっても誰も偲んではくれないのだから、と歌う。
現在、善通寺近くの玉泉院に西行庵があって、松も「久の松」として大切にされている。ホンモノの西行の庵は疾うの昔に廃墟化して失われ、どこにあったのか実はよくわからない。江戸時代に探し出された地に庵が再建され、現在の松は再建時から、さらに何代目かの若木である。