アステイオン

医療・経済

「なんとなくよかったね」で済ませたがる...経済学者と医療者が対立した、コロナ禍が築く「共有財産」とは?

2025年02月19日(水)11時01分
河合香織 (ノンフィクション作家)
コロナ禍の東京

KenSoftTH-shutterstock


<専門分野も立場も違う人々が互いに「もどかしさ」を抱きながら議論された日本の新型コロナウイルス対策を「いま」事後検証すべき理由>


2月も下旬になると少し寒さが緩む日がある。風が強くて良く晴れた朝、私は新型コロナウイルス対策の専門家会議のメンバーにインタビューするために、東京大学医科学研究所に向かっていた。

花粉を避けるために私はマスクをしていったが、まだ2020年2月はマスクが当たり前ではない時期だった。

当初、コロナの「専門家」といえば、感染症など医療の専門家であった。首相と共に会見を行ったのは尾身茂氏であり、首相が「専門家の意見を伺って」と言う際の「専門家」もまた主に医療の専門家を指しているのだと思っていた。

だが、よく取材をしてみると、数は圧倒的に少ないものの経済の専門家が専門家会議に参加し、重要な提言を行なっていることを知った。専門家会議に参加する専門家たちの私的な勉強会は毎週開催され、経済専門家たちも参加し、緊迫した議論を繰り広げていた。

私が感染症と経済の専門家の両者の取材をしてきて感じたのは、互いに相手に対してもどしかしさを抱いているのではないかということだった。専門性も立場も違う。医療の専門家は感染症による被害を食い止めることを重要視するだろうし、経済専門家はまた別の視点から見るだろう。

だがそれだけではない、背景にはもっと根源的なものがあるのではないか──。

『アステイオン』101号の特集は「コロナ禍で経済学を検証する」と題し、日本で実施されたコロナ対策の効果を、経済学の見地から検証する特集である。私はこの特集を読んで、ずっと引っかかっていた疑問が解きほぐされていくような思いがした。

巻頭言で慶應義塾大学教授の土居丈朗氏は、「政策を講じたからには、その効果がどうだったのかを事後検証したくなるのが、経済学者の性である」と述べる。興味深いのは、事後検証することを責務と捉えるのではなく、「経済学者の性」だと述べられていることだ。

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