ぼくにはずっと明るい未来への疑念がずっとあった。
それがアメリカの黄昏や汚れた都市像になり、やがて連載の4回目で世紀末を論じることになる。
ぼくは吉田健一の『ヨオロツパの世紀末』を参照した。彼の主張は明快で、ヨーロッパ文明は18世紀に最盛期に達し、19世紀には凋落した。それは人間的なるものよりも観念の方を大事にしたからで、その分だけ文明は空疎になった。
今にして思えばここに言う観念とはマルクス主義と科学のことだとわかる。教会の権威が失墜し、それに代わるものとしてこの2つが台頭した。実際、マルクス主義の運動や科学のドグマはキリスト教によく似ている。
その19世紀の終わり近くになって、もっぱら詩人たちが観念から人間を奪還しようと試みた。その運動は彼らと俗世間の対立という形を取り、世間は詩人を退廃とかデカダンスと呼んだが、実は退廃は世間の方にあった。
ここで吉田健一が取り上げるのはボードレールやオスカー・ワイルド、ラフォルグ、マラルメ、イェイツなど。今にして思えば20世紀の文学の基礎を作った人々である。
日本については話がだいぶ違う。この極東の小さな閉じた文明国は19世紀末に国を開いてヨーロッパ文明を導入した。
だから彼らは18世紀を知らぬまま、吉田の文脈に沿って言えばヴォルテールとギボンと『ファニー・ヒル』を知らぬまま、詩人と俗世間の対立だけを不変の構図として受け入れた。そして超俗こそ取るべき姿勢と思い込んで自然主義私小説にのめり込んだ。
この歪みは戦後まで続いたが、これを論じるのはこの文が扱う範囲の外である。
vol.101
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