アステイオン

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「都会らしさ」の来歴と今後──『アステイオン』の38年

2024年10月02日(水)10時40分
苅部 直(東京大学法学部教授)
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<『アステイオン』が創刊された1986年とはどのような時代だったのか? メディア環境の変化をどのように乗り越えていくのか。『アステイオン』100号の特集「『言論のアリーナ』としての試み」より「『都会らしさ』の来歴と今後」を転載>


『アステイオン』の表紙をめくると、その裏には「鋭く感じ、柔らかく考える」という言葉が、毎号さりげなく(?)印刷されている。本誌が創刊号からずっと、中断期間をはさみながら掲げてきた謳い文句である。政治・社会・文化を個別に論じるのではなく、それぞれの領域からの視線を交錯させ、硬軟とりまぜた文章を載せてゆく。『アステイオン』のそうした姿勢を、よく表わしている。

1986(昭和61)年7月に発行された創刊号を見ると、同じ表紙裏を占めているのは資生堂の男性用コロン「パラディム」の全面広告。本誌とは異なって、こちらの商品はやがて、世紀の変わり目のころに販売を終えたようである。裏表紙は「新三共胃腸薬」の広告で、第2号になると日産自動車が当時は生産・販売していたドイツの乗用車、フォルクスワーゲン・サンタナの広告に代わっている。

当時は経済におけるバブルの時代が始まろうとしていたころであるが、創刊号、第2号が出た時期の出版界の景気は、まだ芳しくなかった。だが広告を見ると、日本経済が最盛期へと向かう前夜の時期に、『アステイオン』の読者としてどういう人々が想定されていたかが、よくわかる。おしゃれなコロンを使い、外車に手を伸ばせる資力があり、勤務時間外の夜にも胃腸を酷使しながら仕事に励む男性。同じ年の10月に開場したサントリーホールの広告も載っているから、藝術にも高い関心をもつ層だろう。「パラディム」というコロンの名前も、当時に盛んだった「ニューアカデミズム」の風潮において「パラダイム」が流行語になっていたことを連想させる。

『アステイオン』の創刊時の編集委員の一人として名を連ねていた山崎正和の回想によれば、創刊のころの編集は、発行元であったTBSブリタニカの編集部に、山崎と、やはり編集委員だった粕谷一希の二人が「乗り込み」、企画について議論しながら行なっていた。そして、中央公論社・都市出版の練達の編集者としても活躍した粕谷一希の意図は、「当時まだ代々木系が圧倒的に強かった出版界の中で、公正な雑誌を出したい」というものだったという(インタビュー「鋭く感じ、柔らかく考えてきた三十年」、本誌84号、2016年5月)。

注釈をつけ加えれば、1986年の出版界で「代々木系」が「圧倒的に」強かったという山崎の回想は、時期に関する勘違いか誇張を含んでいるだろう。岩波書店の『世界』のような、旧左翼(社会党・共産党)と市民運動の論調が濃い総合雑誌とは異なって、政治に関して現実主義の姿勢をとる論考を載せる。当初の『アステイオン』がそうした方針に基づいて編集されていたことは、目次からたしかにわかるが、そのころの出版界で「代々木系」すなわち共産党の勢力がそれほど強かったとは思えない。

山崎の回想についてはむしろ、それまで戦後日本の政治・経済を語るさいに共有されてきた言説の枠組を、相対化する姿勢をとっていたという意味に読みかえながら、受けとめる必要がある。境家史郎の近著『戦後日本政治史─占領期から「ネオ五五年体制」まで』(中公新書、2023年)が説くように、いわゆる55年体制が成立してからあとは一貫して、憲法問題を争点としつつ保守・革新の両陣営に分かれるのが、戦後の政党間競争の構図だった。

それに呼応するようにして、新聞・雑誌に見える論説や、関連書籍の内容が、この両極のどちらかに寄った主張を展開するものになり、場合によっては版元と表題だけを見れば、内容が想像できてしまう。そんな傾向は、本誌の創刊から30年以上すぎた現在でも見られる。そうした周囲のメディアの動きから離れ、落ち着いた論考を載せているのが『アステイオン』の特色と言える。

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