アステイオン

雑誌

今の雑誌は「同じ面子、差異のない内容」ばかり...雑誌の時代だった80年代と何が違うか

2024年08月12日(月)10時55分
福嶋亮大(立教大学文学部教授)

さて、本題の『アステイオン』である。『アステイオン』は1986年に創刊された。

80年代の雑誌というと、私は『へるめす』(1984年創刊)、『GS たのしい知識』(1984年創刊)、『リュミエール』(1985年創刊)あたりのバックナンバーを何冊かもっていて、いずれも楽しく読んできたけれども、『アステイオン』の初期のバックナンバーを手に取ったのは今回が初めてである。

たいした差ではないが、これらの雑誌と比べると『アステイオン』は多少後発である。このちょっとした「遅れ」は、山崎正和をはじめ丸谷才一や司馬遼太郎を起用した雑誌のカラーにおいて拡大される。

初期の『アステイオン』は多元主義的でオープンな市民社会の建設という大きなテーマ──それは山崎の「柔らかい個人主義」という標語と直結する──を中心としつつ、本格的な国際社会の到来のなかで「日本は今後どうあるべきか」あるいは「日本とは何であったか」という問いをたえず誌面に響かせていた。

フランスのポストモダン思想が80年代の日本思想の前衛であり(むろん前衛の廃墟に続くポストモダンを前衛と呼ぶのはおかしいが、大雑把なイメージとして理解してほしい)、それが『GS』や『リュミエール』の酵母になったとしたら、《市民社会》と《日本》というオーソドックスな問題設定に戻った『アステイオン』はいわば後衛性を象徴している。

実際、ポスト産業社会や消費社会をテーマに取り上げる場合でも、山崎正和の対談相手はフランスのジャン・ボードリヤールではなく、アメリカのダニエル・ベルやダニエル・ブーアスティンであり、そこにもエクセントリックなポストモダン思想を退ける雑誌のカラーがよく示されていた。

それとも関わるが、日本の位置がしばしばアメリカを座標軸として測定されているのも、初期の『アステイオン』の特徴だろう。当時の論考を読んでいると、日米貿易摩擦が激化し、ジャパンバッシングが生じるなかで、アメリカとの関係が抜き差しならなくなっているという危機感がうかがえる。

今からすると隔世の感があるが、アメリカに追従してきた戦後日本が大きな分岐点を迎えているというのが、雑誌としての認識だろう。

このように、前衛から後衛までいろいろなカラーがあったとはいえ、80年代の雑誌において、硬直化した「論壇」や「文壇」から批評精神は出てこない、ということは当然の前提となっていたように思える。

お作法やイデオロギーに染まった「壇」では、言葉と現実が無邪気になれあい、言説がオートマティックに推進されてしまう。しかし、批評ないし批判とは、何よりもまず言葉と現実のあいだのギャップ(ずれ)の意識から始まるものである。

たとえば、『リュミエール』の責任編集を務めた蓮實重彦にとって、映画は言葉ではついに所有できない他者である。この光り輝くメディアを前にして「書くことの特権性」は崩れ去るしかない。言葉を超えたものを言葉で追跡するという不可能な営みこそが、『リュミエール』の「思想」なのだ。

かたや『へるめす』や『GS』の場合、社会のみならず文化・芸術まで含めてさまざまな領域の横断性こそが強調される。とても全体を見通せない複雑怪奇な現実を前にして、領域間の異種配合を積極的に推し進めることが、思想の言葉を生き残らせる鍵となった。

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