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2020年からコロナに関する専門家の取材を続けてきた。その中で実感したのが、専門知の言葉を伝えることの難しさだ。
様々なデータと科学的意義を説明してきた専門家自身も、一部を切り取って伝えるメディアとの齟齬を感じることがあったようだ。専門知を多くの人にわかりやすく伝えるという意味におけるアカデミズムとジャーナリズムの融合の必要性を強く感じた。
だが一方でアカデミズムとジャーナリズムを架橋すべき理由としては、さらに深い使命もあるのではないか。その一つとして挙げられるのが、答えのない問いに対峙する柔らかさ、自由さ、伸びやかさを相互に取り戻すことではないかと私は考えている。
「アカデミックな世界はあなたには不自由だと感じられるでしょう」
40歳を過ぎて大学院に進学するかを悩んでいた時に、信頼する研究者からこのように助言された。それでも私はノンフィクションを書き続けるためには先人たちが積み重ねてきた知の蓄積を学ぶことがどうしても必要だと思った。自分の中に背骨となるディシプリンを求めていたからだ。
とはいえ、20代で学部を卒業後、アカデミアとはまったく関係なく過ごしてきた自分が、なぜ今さら学問を志すのか。その一つの理由とは、次のような問いに対する「答え」を求めていたからかもしれない。
今から10年ほど前、出生前診断の誤診に関する裁判の取材に取り組んでいた。
検査では陰性だと告げられていたのに、生まれた子はダウン症だった。しかもその子は重篤な合併症のため、一度も退院できないまま、母に抱かれることもないまま、3カ月あまりでその命を閉じることになる。
当初、訴状に原告は、もしも正しい検査結果がわかっていたら、「中絶していた」と記していた。だが、母はこの世に生まれ命を閉じた我が子を「中絶していた」とはどうしても言い切ることができずに、裁判上不利だと弁護士に説得されてもなお、「中絶していた蓋然性が高い」と訂正を求めた。
私はその訂正を知って、この母親に話を聞かねばならないと思った。
この裁判は日本初の「Wrongful life(ロングフルライフ)」訴訟と呼ばれた。Wrongful life訴訟は、障害などをもって生まれたことが損害だと子自身が訴えるというものである。
この裁判では、両親は誤診による自分たちの損害だけではなく、苦しんで亡くなった子自身の損害を請求していた。苦しむだけの生なら生まれなかった方がいいのか。それは損害と言えるのか。この裁判が投げかけた問いは、法律だけでは答えがでない。
ゲノムを使った検査は出生前診断からがんの治療まで広がっているが、急速な科学技術の発展にのみこまれ、葛藤に引き裂かれている人たちがいる。流されるだけではなく、足を踏ん張って、リスクを知ることとは何か、命を選ぶこととは何かを考えてみたいと感じていた。
そこで知ったのが、ELSI(Ethical, Legal and Social Issues)と呼ばれる科学技術の倫理的・法的・社会的課題についての研究だった。
科学はそれ単体で成り立っているのではない。法的な問題に加え、倫理的、社会的なアプローチから総合的に考えていくという理念は、まさに私が今学びたいと考えていた知であった。
vol.101
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