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今日、学術界では、(真理)探究の営みにおいて、いわゆる理系/文系という二分は厳密には不可能であるという共通した認識はあるように思う。
一般社会でもしかり。ここ最近でも、News Picks配信動画「「文系は不要か?」理系人材の拡充・文系職種の縮小...。文系人材は社会で活躍できるのか?」(2023/11/14)を始め、「「理系か文系か」やめませんか 革新阻む前世紀の遺物」(日経新聞2024/02/19)、「AI社会では「文系・理系」の融合こそ喫緊の課題」(東洋経済オンライン2024/03/15)といった記事が掲載されている。
しかしながら、ここに悲しい逆説が存在する。
上記の記事において、いずれも「理系、文系という構図に本質的意味はない」という結論であるにもかかわらず、結果的に、「理系VS文系」の構図を目立たせてしまっているという事実である。
その二分に本質的意味はないというのであれば、そもそもその二分をこの世から無くす、つまり、その二分の言葉を使用しなければいいのだが、あまりにわかりやすい対立構造ゆえに、逆に世間の注目を集めるに至っているのだ。
この現状を視野に入れ、「超えるのではなく辿る、二つの文化」というタイトルで、『アステイオン』本誌にて2年間にわたり全4回の連載企画に挑んだ。ここでいう「二つの文化」とは、10年以上も前に和訳されたその著書でC.P.スノーが言い出した、いわゆる理系と文系のことである。
本連載では、この二つの文化を並列的に「連携」させるのでなく、それらの源流を辿ることによる二つの文化の「融解」を目指した。二つの文化を「連携・協同させる」でもなく、もちろん「対立させる」でもなく、あくまで探究の単なる「入口」または「きっかけ」として捉え、そもそも何なのかと考究することで必ずそれらが交差する地点(問い)を目指したのである。
だが、この挑戦は特に目新しいことではない。いわゆる理系だろうが、いわゆる文系だろうが、どのような対象についてであれ、どのような専門であれ、考えつめたその問いの深さがより深いほど、二つの文化の存在は自ずとその根源的な「問い」の前に相対的となるのは、本来の学問の姿なのだから。
本連載は筆者(学問論、大學論)が担当として関わり、安藤妙子(マイクロ機械工学)、後藤彩子(昆虫機能学)、櫻井悟史(文化社会学、犯罪社会学)、プラダン・ゴウランガ・チャラン(日本文学、比較文学)、三谷宗一郎(行政学)、村田純(植物生化学、植物特化代謝)の6名の研究者と共に寄稿した。連載終了後に、著者等が集まるフォローアップのシンポジウムも開催した。
上記シンポジウムでは、改めて越境の意味について話し合われた。研究者になろうと決めた頃は、自身の探究が第一であったにもかかわらず、学術研究のトレーニングを経てプロ化するにつれ、まるで業界ルールに染まっていくように、結果がでる(だしやすい)研究で「まとめあげる」ようになっていく...内省とともに発言される感想のやりとりからは、そのような状況に陥っていることを自覚するために、分野を超えた対話の重要性が語られていた。
vol.101
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